家督争いを制し、秀吉から所領を安堵される

安東(秋田) 実季あんどう(あきた) さねすえ

安東実季

安東実季

  ポイント

  • 安東愛季の次男
  • 12歳で家督を継ぐがすぐに反乱が起きる
  • 豊臣秀吉から所領を安堵
  • 江戸幕府成立後に常陸国へ転封

誕生・死没

  • 誕生:1576年
  • 死没:1660年
  • 享年:85歳

名 前

  • 安東実季→秋田実季
  • 藤太郎(仮名)
  • 宗実(雅号)

墓場所

  • 三重県伊勢市朝熊町永松寺

所 属

官職・役職

  • 官位: 従五位下、秋田城介

親 族

安東愛季
畠山清信の娘
細川昭元娘(円光院)
荒木高兼娘・瑞峯院
   荒木高兼娘(瑞峯院)
兄 弟 業季 、 秋田局 、 実季 、 英季 、 季勝
浪岡顕村の正室
俊季 、 季次 、 季信 、 季長
季則 、 荒木高綱室 、 津軽信建正室

略 歴

1576年 1歳  安東愛季の次男として誕生
1587年 12歳  父・愛季が死去したため家督を継ぐ
従兄弟の道季が反乱を起こす(湊合戦)
1589年 14歳  湊合戦を鎮圧する
1590年 15歳  比内大館を南部氏から奪回
小田原征伐に参陣
1591年 16歳  湊城に本拠地を移す
秋田城介を号して秋田氏を名乗る
九戸政実の乱に参陣
1592年 17歳  朝鮮出兵に参陣
1600年 25歳  東軍として関が原合戦に参陣
1602年 27歳  常陸国に転封
1614年 39歳  大阪夏の陣に先陣として参陣するが大敗する
1630年 55歳  幕府から嫌われたため伊勢国朝熊へ閉じ込められる
1660年 85歳  死 去

概 要

安東愛季の次男。
12歳で家督(檜山安東家9代当主)を相続するが従兄弟の通季がこれに反対し挙兵、騒乱となる。
3年後、乱を鎮圧し南部家や戸沢家と抗争し、所領を守り抜く。1590年に小田原征伐に参陣し豊臣秀吉から秋田・檜山・比内3軍5万2000石を安堵されるが、関が原合戦での不手際から秋田領から常陸宍戸に転封される。

家督相続と湊合戦

安東家8代当主・安東愛季の次男として誕生。
1587年、父・愛季が病死したため、わずか12歳で跡を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄の安東通季(豊島通季)が「湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした(湊合戦)。通季は日本海沿岸の海港の確保を願う内陸部の戸沢氏や小野寺氏、北奥の南部氏らの諸勢力とも通じていた。
実季は1589年、機先を制して出陣したが逆に撃退され苦戦を強いられる。その3年後、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した。
このとき、通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しか持たなかったが、5ヶ月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。
実季らの主力は檜山郡に基盤をもつ檜山衆であり、加えて阿仁川流域地方の嘉成氏や米代川中流域の浅利氏一族などの比内衆、また湊から檜山に移った竹ヶ鼻伊予など二十数名の湊衆が味方になっていった。

湊合戦後

湊合戦は、北出羽内陸部の平鹿郡、比内郡方面への進出をはかる南部信直やその南部一族から津軽地方の独立をはかる大浦為信との抗争を巻き込んで、北奥羽における政治的激動の要因となった。
実季は平鹿郡・雄勝郡地方を本拠とする小野寺義道と戦うが、その隙を狙って東方より侵入した南部信直とも激しく戦っている。
 由利郡の赤尾津氏や津軽の大浦為信との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破ることに成功した。
1590年には、大浦為信の援護もあり比内大館を南部氏から奪回した。これには、浅利頼平は為信の斡旋で比内の地に戻った。

北出羽の大名に

1590年、豊臣秀吉より小田原征伐へ参陣、同年に奥州仕置が行われると実季は太閤検地の結果によって出羽国内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた。
※ただし、実高は15万石におよんだといわれる。旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は太閤蔵入地として没収され、実季はその代官に任じられた。
 奥州仕置後、実季はあらためて平城として、雄物川河口の土崎湊に堀をともなう湊城を築いて本拠をここに移し、秋田城介(自称)を号して秋田氏を名乗った。また主要な地には功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築いた。
1591年の九戸政実の乱における討伐軍、1592年よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。
1599年から翌年にかけては本拠湊城の大規模な改築を行なっている。そこには、多数の大工・鍛冶・大鋸引・葺土・壁塗りが参加したことが記録に残されている。

関が原合戦

1600年関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)では東軍側に付き小野寺家と戦った。
会津征伐での山形城主最上義光と上杉景勝との講和は秋田氏と最上氏との密約を察した上杉側によって決裂となり、慶長出羽合戦では小野寺義道を平鹿郡大森城に攻めた。
しかし、この際に秋田氏の勢力が増大することを恐れた戸沢氏が消極的態度をとったことや、最上と上杉側との戦前交渉に失敗し最上を孤立させる一因を秋田氏側が作っていたことから、戦後に最上義光が「実季が西軍側と通じている」と徳川家康に讒言する事態となった。
また、義光は伊達政宗に対して戸沢氏ら実季以外の諸将についても軍令違反があるとの認識を示した書状を送っている
実季は弁明したが、1602年、家康の命を受けて常陸国宍戸に転封された。これは常陸国の大名佐竹氏の秋田・仙北への入部にともなうものであったが、秋田家への罰ともされている。このとき、姓を秋田から伊駒へと改めている(その後復姓)。

常陸入部

1611年2月27日には、従来自称してきた従五位下秋田城介に正式に補任された。
 1614年の大坂夏の陣では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。
その後、幕府の忌み嫌うところとなり、(実季の態度が頑固)であったため、伊勢国朝熊へ追い出しそこで死去した。

伊勢朝熊に蟄居した際に万金丹を制作したという逸話が残る。