ポイント
- 南部信直の嫡男で南部家27代当主
- 関が原合戦で東軍に属し最上家の援軍を行う
- 南部藩の礎を築く
官職・役職
- 官位:従五位下信濃守、従四位下
略 歴
1576年 | 1歳 | 南部信直の長男として誕生 | 1590年 | 15歳 | 元 服 | 1598年 | 23歳 | 徳川家康に接近 | 1599年 | 24歳 | 父・信直が死没 家督を継ぐ |
1600年 | 25歳 | 関が原合戦では東軍に属し最上家に援軍を出す | 1601年 | 26歳 | 岩崎一揆を鎮圧 | 1614年 | 39歳 | 大阪冬の陣に参陣 | 1632年 | 57歳 | 死 没 |
概 要
南部信直の嫡男。前田利家を烏帽子親として元服。家督相続後は関ヶ原合戦で東軍に属し、最上家を救援した。領内の一揆を平定後、鉱山開発から財政を安定させ南部藩の基礎を築いた。
出生と元服
1576年、26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて誕生。
1590年には、南部家と豊臣家の取次を行っていた前田利家を烏帽子親として元服し、その際に利家から「利」の一字を授与されて利正と名乗り、後に利直に改名する。
1595年に従五位下・信濃守に就任される。
関が原合戦
豊臣秀吉が死去した後は、父・信直と共に徳川家康に接近する。そんな中1599年、父が死去したため家督を継いで南部家当主となった。
1600年の関ヶ原の戦いでは、家康は西軍側についた上杉景勝の征伐を命じ、利直は最上義光の後援として山形に出陣するが(慶長出羽合戦)
岩崎一揆
最上家援護のため出羽まで遠征していた南部家だったが、伊達政宗の策略により和賀忠親が挙兵し南部領の花巻城や周辺諸城を急襲した
。
一時は二ノ丸、三の丸を制圧し本丸に迫ったが、北信愛や柏山明助、救援に駆け付けた北信景らの奮戦により退けられ1601年に無事一揆を鎮圧した。
盛岡藩の基礎を築く
利直の藩主として藩政の整備に着手し、鉱山開発から財政を安定させた。領内の産金が著しいこともあり財政に恵まれて、近世的支配体制が進展する。
1615年には念願だった盛岡城を築城して城下町を形成し、三戸城下の市民も盛岡に移した。また、九戸政実の乱の教訓から家臣の多くを処罰、リストラして独裁集権化を進め、盛岡藩の基礎を固めていった。
対江戸幕府としても1614年には大坂冬の陣にも参陣し、関係を強化した。
その後、1632年に江戸桜田屋敷で死没した