年 表
1539年 | 安東愛季誕生 |
1544年 | 湊派・安東友季が死去し安東定季が9代目当主となる |
1550年 | 安東舜季立ち合いのもと蠣崎氏とアイヌ人との講和をまとめる |
1553年 | 檜山派・舜季が死去 |
1556年 | 愛季が能代の湊作りを始める |
1562年 | 愛季が上杉謙信と結び海洋交易の海路を確保する |
1564年 | 南部領鹿角郡に侵攻 |
1569年 | 南部晴政に敗れ鹿角から撤退 |
1570年 | 愛季が湊家を継承し安東家が統一 |
1578年 | 津軽家が愛季の婿・北畠を攻め北畠城を攻略 |
1579年 | 浪岡城奪還のため津軽領に侵攻する(六羽川合戦) |
1582年 | 浅利氏を滅ぼし出羽北部沿岸を統一 |
1589年 | 本拠地を湊城へ移す |
1587年 | 愛季が死去 |
1590年 | 比内大館を南部氏から奪還 |
1599年 | 湊城の大規模改築が始まる |
1600年 | 東軍側として関ヶ原の戦いに立つ |
1614年 | 大阪夏の陣 |
家 紋
檜扇に違い鷲の羽
出 自
安東氏の出自については諸説あり。またその歴史も古い。
1つは平安時代の中期の武将安倍貞任を始祖とする考え、もう1つは三河安東氏を祖先とするものである。
前者の説には安東氏の末裔である、秋田家には安部貞人を子孫とする系図が残っており、後者の説には三河安藤氏に伝わる安藤系図に源頼朝の奥州攻めに際して安藤小太郎季俊が先導をし、その子・季信が幕府から津軽の警護を命じられたとある。
参照:wikipedia
二つの安東家
安東家に二つの安東家が存在していた。
一つは、室町時代に南部氏の侵入によって十三湊から蝦夷地まで逃れ、まもなく出羽に戻って檜山に城を築き、そこを本拠として檜山安東家と、蝦夷に渡らず、そのまま津軽から南下して秋田郡を支配し湊(秋田市)に城を築いた湊安東家がいた。
槍山家による秦家の吸収
戦国時代後期に入ると湊家に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため、詳細は不明であるが槍山家8代将軍「安東愛季」が湊家をも継承して、1570年に安東氏を統合し、安東氏の全盛期を築き上げた。愛季は上杉謙信、織田信長らのと対等の誼を通じていた。
当時配下であった蠣崎慶広を使い浅利勝頼を謀殺するなど領内の反抗勢力を滅ぼし、旧湊家系国人衆の反乱である湊騒動を収め由利地方から大宝寺氏の干渉を駆逐するなど権力基盤を固めた。これらにより、安東氏は戦国末期に至り、秋田郡・檜山郡・豊島郡・由利郡を勢力範囲とする戦国大名へと成長した。居城も檜山から脇本城(秋田県男鹿市)を経て1589年湊城へ移している。
主 な 拠 点
所 属 武 将 (名前クリックで詳細)
安東政季 |
室町中期の檜山安東氏当主、大浦郷で南部氏と戦い大敗して蝦夷地へ逃れた。その後、勢力を蓄えて帰環。秋田県の西北部を侵略して檜山城を築く |
安東忠季 |
檜山安東家5代当主。父・政季が家臣に殺されたため、家督を継ぐ。檜山城を築き、居城とした。1496年、悪政の咎により松前守護職・下国恒季を討った。 |
安東尋季 |
檜山安東家6代当主。安東忠季の子として誕生(諸説あり) |
安東舜季 |
檜山安東家7代当主。1550年、蠣崎季広とアイヌ族の和睦協定を裁定するために蝦夷地に渡った。このことにより檜山安東家の蝦夷支配体制が確立された。 |
安東愛季 |
檜山安東家8代当主。舜季の嫡男。湊・檜山の両安東家を統一し、巧みな戦略で安東家最大の版図を築き上げ「斗星の北天に在るにさも似たり」と恐れられた。 |
安東実季 |
安東愛季の次男。12歳で家督を相続するが、従兄弟の道季がこれに反対し騒乱となるが、これを制圧する。その後、豊臣秀吉から所領を安堵されるが江戸幕府成立後に常陸国に転封になる |
安東堯季 |
湊安東家7・9代当主。安東宣季の子。父の死後家督を継ぎ、大祖父の代より関係が悪化していた宗家・槍山安東氏と和議を結び血縁関係となった。男子に恵まれず、槍山安東家より婿養子をとった。 |
安東茂季 |
湊安東家9代当主。槍山安東家当主・舜季の三男。安東堯季の養子となっていた兄・友季の死後、堯季の養子となり、湊安東家の家督を継いだ。その後、蠣崎季広の六女を妻とした。 |
安東通季 |
湊安東家9代当主。槍山安東家当主・舜季の三男。安東堯季の養子となっていた兄・友季の死後、堯季の養子となり、湊安東家の家督を継いだ。その後、蠣崎季広の六女を妻とした。 |
森山季定 |
陸奥森山館の主。主君・安東尋季に対し謀反を起こすが安東・蠣崎軍に敗れ自害する |
豊島重村(休心) |
安東家臣。畠山重忠の末裔という。1570年、湊安東家臣の下刈右京らと結んで謀叛を起こすが、安東愛季の軍勢に敗れ、妻の実家・仁賀保家を頼った。 |
浪岡慶好 |
浪岡家最期の当主・顕村の子。津軽為信に居城・浪岡城を奪われた父とともに安東家を頼る。のちに北畠右近と改名し、使者として豊臣秀吉のもとに赴くなど活躍した。 |