【戦国時代のこぼれ話!武将達の逸話まとめ】 

膳

 伊達政宗

恐るべし推察力

蘆名家との戦いの最中、政宗は敵方の武将に見事な戦いぶりをする武将を二人みつけ、家臣にこういった。
「一人は20歳ぐらい、もう一人は30余歳といったところだろう」
戦いは伊達方が勝ち、蘆名家は滅亡した。捕らえた敗将のなかには、先ほどの二人の武将もいた。家臣が政宗の言葉を思い出し、二人に年齢を尋ねたところ一人は21歳、もう一人は25歳という。政宗の推察どおりだったのである。政宗は「一人は相手を選ばずに勇敢に戦っていたが、それは若いからである。もう一人相手の強弱を見計らって、進退の度合いを決めていた。経験ある年だからできることだ」と鋭い推察力を見せた。

鳥の花押

秀吉による天下統一後に東北で一揆(葛西一揆)が勃発した。
秀吉は一揆の首謀者を政宗だと疑い、証拠である手紙を政宗に突きつけた。しかし政宗は「自分の書状は花押(送り主の証)には鳥の目に必ず穴を空ける、この花押には穴が無い」と無罪を主張した。

 加藤清正

適材適所

朝鮮出兵の際に清正が家臣に放った言葉である。ある日の事前線にいる一隊を引きあげさせるため、命令伝達と救護に誰かを派遣しなくてはならなかった。清正は部下達を見回して、その役を末座にいた庄林隼人に命じることにした。そして隼人は清正の期待通り無事任務を果たし、引き上げを成功させたのである。
 このとき側近の森本儀太夫が目に涙を浮かべていた、理由を尋ねると「殿のお側に私が控えているというのに、庄林に命じになったのが悔しいのです」それを聞いた清正は「もに相手が屈強で犠牲を覚悟で攻めねばならない場合だったら、わしは、お前に命じていただろう、しかし今度の場合はそうではない、適任者は庄林だと判断したまでのこと。お前達は皆私の大切な家来だそれゆえ、わしはそれぞれの長所欠点を考えて適した働き場所を考えている」と言った。

 石田三成

三成の入れたお茶がおいしく秀吉にスカウトされる(三杯の茶(三献茶))

ある日、秀吉が鷹狩りの帰り道、喉が渇きお茶を飲むため寺に立ち寄った。そこで寺小姓をしていた石田三成がまずぬるめの茶で喉の渇きを潤すため「大きめの茶碗にぬるめの茶」を、次に後の熱い茶を充分味わわせるため一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。三成のその細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣とした。

俸禄は有効に遣うべし

三成が近江左和山の城主になったときの事、島左近を1万5千石で召抱えたことにより石高がいくらも残っていない三成が側近に言った言葉「子は秀吉公の奉公人である。奉公人は主君より戴いた俸禄を有効に遣って、少しも残すべきでない。残す者は盗人、遣いすぎて借金するのもは愚か者である」と言い残した。現に三成は関が原合戦に先立って全財産を遣っている。

最期まで夢をあきらめない

関が原の戦いで破れた三成の話である。
関が原の戦いで破れた三成は即戦場を離れた。伊吹山に逃がれ、大阪に潜入して再起を図ろうと考えたのである

景綱の評価

景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価された。奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退している。

人取橋の合戦

政宗が人取橋合戦の際、敵兵を深追いし逆に敵兵に囲まれてしまったことがあった。そのとき景綱は「やあやあ殊勝なり、政宗ここに後見致す」などと騙り敵兵を一手に引き付け、政宗の窮地を救ったという。

北条氏政

世間知らずの武将

 氏政は「小田原旧記」に愚か者と記載されているが、それを証明するエピソードがある。
 ある日の昼時、戦陣に赴いていた氏政は、遠くで百姓が麦を刈っているのを見て、家老の松田憲秀に「あの新鮮な麦で昼飯をつくらせよ」とつい口をすべらせた。
このことが武田信玄の耳まで届くと、「さすがは氏政は大身の者だ。いうことが違う。刈り麦をすぐに飯にできると思っていたのか。麦は刈りとり、扱いで、こなして、潤して、ついて、乾かして、水に浸してから煮る。そしてやっと口にできるものだ」と笑った。