ポイント
- 伊達家の重臣として一族に加わる
- 片倉喜多の父
- 人取橋の戦いで奮戦するが殿を務め討死にする
同い年の武将
官職・役職
- 不 明
略 歴
1513年 | 1歳 | 鬼庭元実の子として生まれる | 1539年 | 27歳 | 家督を継ぐ | 1542年 | 30歳 | 天文の乱の乱では伊達晴宗側として戦う |
1549年 | 37歳 | 長井郡川井城主となり、所領を2,000石に加増される |
1564年 | 52歳 | 伊達輝宗が当主となると評定役に抜擢される |
1573年 | 61歳 | 鬼庭氏に一族の家格が与えられる |
1575年 | 63歳 | 嫡男・綱元に家督を譲り「左月斎」と号す |
1577年 | 65歳 | 伊達稙宗の子・彦五郎が国分家の跡継ぎとなる準備を整える |
1585年 | 73歳 | 人取橋の合戦で殿を勤めて討ち死にする |
概 要
伊達輝宗に重用された武勇に優れた武将。輝宗から絶大な信頼を得て天正年間には伊達家の一族に加えられている。
輝宗の死後、隠居して「左月斎」と称したが、その後も評定約として政宗を補佐。1585年の二本松攻略戦にも政宗に従い参加した。人取橋の戦いでは佐竹・蘆名の連合軍を相手に政宗から下賜された金色の采配を振るって奮戦。退却の際に殿を務め、73歳にして壮絶な討ち死にを遂げた。
誕 生
1513年、伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭元実の子として生まれる。
1539年、父・元実の隠居にともない家督を相続する。
1542年に勃発した天文の乱においては父と共に伊達晴宗方に属して戦い、その功績を以て1549年には長井郡川井城主となり、所領を2,000石に加増された(これらの所領は、1553年の『晴宗公采地下賜録』では隠居した父・元実の名義になっている)。
伊達家の重臣として
1564年に伊達輝宗が当主になると、側近に人材を求めていた輝宗は良直を評定役に抜擢する。これによって良直は遠藤基信と共に輝宗政権の中核を担うことになる。
良直は輝宗の信任によく応え、天正初年には鬼庭氏に一族の家格が与えられた。1575年、嫡男・綱元に家督を譲って隠居し左月斎と号した
1577年には稙宗の子・彦五郎が国分盛氏の跡継ぎとして陸奥宮城郡に乗り込む事になり良直は先立って派遣され準備一切を整えていおり、隠居後も引き続き輝宗の側近にあって政務に従事した。
人取橋の戦い
1585年10月、嫡男・政宗に家督を譲っていた輝宗が殺害されると、常陸の佐竹義重が、政宗を見放して伊達氏から離反した南奥の諸侯を集結させ二本松城を包囲中の伊達軍を攻撃するため安達郡へと攻め寄せた、人取橋の戦いである。
この時、左月斎は政宗から指揮を任されて金色の采配を与えら奮戦した。
しかし、兵力に劣る伊達軍はたちまち潰走し、佐竹軍に本陣への突入を許す状況となったため、左月斎は政宗を逃がすために、殿軍を引き受けて敵中に突入した。左月斎は高齢のために重い甲冑が着けられず、兜の代わりに黄綿の帽子を着けるという軽装であったが、最前線に踏み止まって力戦し、鬼庭隊は200余の首級を取ったという。この間に政宗は辛うじて本宮城に逃げ込むことができ、九死に一生を得たが、左月斎は岩城常隆の家臣・窪田十郎に討ち取られた。享年73。
政宗は左月斎の隠居領分の知行を未亡人に与え、これを終身安堵する旨の朱印状を発給してその功に報いた。