江戸城代を務めた氏康三家老のひとり

遠山 綱景とおやま つなかげ

概 要

北条家の宿老。父・直景の跡をついで江戸城代となった江戸衆筆頭。
第二次国府台合戦の際には先鋒を務めて里見軍と激戦を繰り広げ、嫡男と共に戦死した。

ポイント

  • 北条家の宿老で氏康三家老のひとり
  • 江戸城代、葛西城主
  • 第二次国府台合戦で先鋒を務め、里見軍と激戦を繰り広げ戦死する

誕生・死没

  • 誕生:1513年?
  • 死没:1574年
  • 享年:62歳?
  • 死因:戦死

官 位

  • 甲斐守、丹波守

親 族

遠山直景
兄弟 綱景康光、北条氏康の側室、
   妙喜尼(諏訪部定勝の正室)
藤九郎隼人佐、弥九郎、政景
川村秀重、法性院(後に北条氏綱養女、太田康資室)、娘(舎人経忠室)ほか

略 歴

1513年? 1歳  誕 生
1533年 11歳  父が死去し家督と所領を継承
1538年 16歳  葛西地域に所領が与えられる
1541年 19歳  北条氏康が当主となる
1544年 22歳  連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催す
1546年 24歳  岩付城の太田資顕の従属に貢献
1551年 29歳  大道寺盛昌が死去し筆頭家老となる
1556年 34歳  結城政勝への援軍として小田家家との合戦に勝利(常陸海老島・大島台合戦)
1558年 36歳  古河公方・足利義氏の鶴岡八幡宮に参拝を先導する
1564年 29歳  娘婿の太田康資が北条家から離反
第二次国府台合戦で戦死

出自と家督相続

詳細は不明だが1513年頃、北条氏の重臣・遠山直景の子として誕生した。
その後、主君の北条氏綱から「綱」の字を賜り、綱景と名乗った。

1533年、父・直景が死去すると、家督と江戸城代の地位を引き継ぎ、下総方面の軍事行動を担った。
江戸城代は本丸に富永氏、二の丸に遠山氏、三の丸に太田氏の3家が置かれていたが、メインとしての城代は遠山氏が務めていたという。
1538年に北条家が葛西城を攻略すると、葛西地域に1,000貫文近い所領が与えられた。

北条家の筆頭家老

1541年、北条氏康が北条家の家督を継ぐと綱景は北条家の有力家老となっていた。
1544年には連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催し景の教養の高さや連歌師を呼べるだけの北条家中における地位を端的に表している。

1546年には扇谷上杉家の宿老で岩付城主・太田資顕の北条家従属に貢献、この従属をうけて資顕の娘を嫡子・藤九郎に嫁に迎えた。
1551年に大道寺盛昌が死去すると綱景は北条家の筆頭家老となり、古河公方・足利義氏が鶴岡八幡宮を参拝した際は、綱景が義氏を先導し義氏へ御礼を進上した。

第二次国府台合戦

1564年、綱景の娘婿であった太田康資が北条家への不満から上杉謙信への寝返りを図って失敗し、同族の太田資正のもとへ逃れた。
謙信は房総の里見義弘に資正・康資救出を依頼し、義弘は1万2千の軍を率いて北条領に進軍、北条軍もこれを国府台で迎えうち『第二次国府台合戦』が勃発した。
娘婿の離反に責任を感じた綱景は、子の隼人佐と同じく江戸城代を務めた富永直勝とともに先陣を務めたが、待ち伏せしていた里見軍の反撃に遭い、隼人佐と康景とともに戦死した。

その後の遠山家

綱景と嫡男・隼人佐(長男・藤九郎はそれ以前に死去)が戦死したため、家督は出家していた四男・遠山政景が還俗して継ぎ、江戸城代と江戸衆寄親を務めた。

政景の家系は小田原征伐により没落するが、舎人経忠に嫁いだ娘は夫の死後、嫡男の勇丸を連れて大道寺政繁と再婚し4人の男子を生んだ。勇丸は養子となり、大道寺直英を名乗った。また、政繁の四男の大道寺直次が一時、遠山長右衛門と名乗ったが、江戸幕府の旗本千石に任じられた際に大道寺に復姓した。

参考資料(引用元)