概 要
北条家の筆頭家老。千葉氏や里見家との外交や内政面で活躍した他に国府台合戦、神流川の戦いなどの諸戦に従軍し、各地を転戦し武功も残している。豊臣秀吉の小田原征伐の際は小田原城への籠城を主張し採用された。のちに秀吉に寝返ろうとして失敗、戦後、自害させられた。
ポイント
- 北条家の家老の家柄で松田盛秀の嫡子。
- 内政面や里見、千葉家との外交で活躍
- 小田原征伐では秀吉方に内応する
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1590年
- 享年:不 明
官 位
- 左衛門佐、尾張守
所 属
略 歴
1571年 | ?歳 | 深沢城にて篭城して武田家に対抗する |
1590年 | ?歳 | 小田原征伐 北条家滅亡 死没 |
松田家
藤原鎌足を先祖とした一族。13代目藤原公光の時に相模守となり相模国秦野に移り住み、14代・藤原経範の時に「波多野」に改姓した。その後、19代・義常が松田郷に住み、その子・有常は「松田」を称して松田次郎と名乗ったのが松田家の始まりとされている。
室町時代後半の松田家は、小田原城の大森氏や扇谷上杉氏と敵対していた。そんな中、北条早雲伊豆国より相模国へ侵攻してきた。当時の当主・松田頼秀は早雲の相模国侵攻に協力し以降、松田家は北条家の家臣となり、家中では北条家一族に次ぐ権力を持った。
北条家での活躍
松田盛秀(顕秀)の嫡男として誕生。松田家は北条早雲以来の譜代の家老の家柄で、2,798貫という知行を食む大身であった。
成人した憲秀は家老として北条氏康に仕え、様々な内政政策に携わったほかに、千葉氏・里見氏などの諸勢力との外交面でも交渉を担当した。
軍事面では、1571年には駿河国深沢城にて北条綱成と共に籠城して武田と戦ったほか、里見家との国府台合戦、滝川一益との神流川の戦いなどの諸戦に従軍し、各地を転戦した記録も多く残る。
氏康死後は氏政に仕えた。当時一国の大名ほどの格式を持ち、文書発給の際に印章を使用した。
小田原征伐
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が勃発すると、憲秀は徹底抗戦を主張した。
しかし、秀吉側の堀秀政らの誘いを受けて長男・笠原政晴と共に豊臣方に内応しようとした。
しかし、次男・直秀が内部告発した事によって計画は事前に防がれ、憲秀は北条氏直によって監禁、政晴は殺害された。この事件の後に北条氏直は降伏を決意、一説によるとこの事件が北条家に降伏を決意させることとなったといわれている。
北条家が降伏したことにより憲秀の処罰は豊臣秀吉に委ねられたが、秀吉は憲秀に切腹を命じた。北条家を裏切ったその不忠(忠誠心がない)の為だったと言われている。
その後の松田家
憲秀の死後、松田家は憲秀の次男・直秀が継ぐことになった。直秀はは氏直に従い高野山に入り、氏直死後は憲定と改名し、豊臣秀次・前田利長に仕えて、前田家では4,000石を知行され、慶長19年(1614年)7月に金沢で死去している。
小田原征伐の真実
小田原征伐の際に徹底抗戦を主張した憲秀だったば、秀吉軍の前に抵抗は無理と悟り相模国・伊豆国の2国の所領安堵と城兵の助命を条件に和睦を打診していたという説もある。
しかし、これは憲秀独断の交渉であり、また一度は徹底抗戦を主張した当事者としては許されるべき対応ではなかったために、露見した際に死罪ではなく監禁されたと思われる。子の政晴については積極的に内応をしようと次男・直秀に相談していたという経緯があったために、憲秀とは違い即座に死罪となったと推測される。一方で、政晴が僧になり静岡県三島市の蔵六寺を開山し、1626年に60歳で病死したという寺伝も残っている。