「地黄八幡」と呼ばれ畏怖された勇将

北条 綱成ほうじょう つなしげ

玉縄城

居城:玉縄城跡

概 要

北条家臣。今川家臣・福島正成の子。父の死後、北条家に逃れた後、北条氏綱の目に留まり氏綱の娘を娶って一門となる。里見家との戦いや河越合戦などで活躍し、その旗印より「地黄八幡」と呼ばれ畏怖された。

  ポイント

  • 今川家臣・福島くしま正成の嫡男
  • 北条氏に仕え玉縄城主となる
  • 黄色い旗を掲げ「地黄八幡」と呼ばれ畏怖された勇将

誕生・死没

  • 誕生:1515年
  • 死没:1587年
  • 享年:73歳
  • 墓所:神奈川県鎌倉市の龍寶寺

名 前

  • 勝千代(幼名)
  • 孫九郎(通称)、駿河守(通称)
  • 鞍打幻庵(あだ名)

官 位

  • 左衛門大夫、上総介

所 属

親 族

福島正成
養父 北条為昌
正室  大頂院(北条氏綱の娘)
兄弟 北条綱房(弟) 、松田盛秀の正室
北条氏繁北条(沼田)氏秀
  高源院殿(北条氏規の室)
  浄光院殿(遠山政景の兄・遠山隼人佐の正室)

略 歴


1515年 0歳  福島正成の嫡男として誕生
1521年 6歳  父が武田正成が戦死し北条家の許へ逃れる
1541年 26歳  北条氏綱が死没
1542年 27歳  義兄・為昌が死没し玉縄城主となる
1546年 31歳  河越夜戦で活躍
1557年 42歳  第三次川中島の戦いで武田方への援軍として参陣
1569年 54歳  三増峠の戦いに参陣
1571年 56歳  隠居し嫡男・氏繁に家督を譲る
剃髪して上総入道道感と名乗る
1587年 73歳  死 没

出生から北条氏に仕えるまで

1515年、今川氏家臣・福島くしま正成の嫡男として誕生した。 1521年に今川氏親の命を受けた父・正成を初めとした「福島一門」が甲斐へ侵攻した。しかし「飯田河原の戦い」で一族の多くが甲斐武田家の家臣・原虎胤に討ち取られた。

その後、父を失った綱成は家臣に伴われて小田原へ落ち延び、そこで北条氏綱の目に留まり近習として仕えた。
(綱成が北条家に落ち延びた説については諸説あり)

北条氏綱のお気に入り

氏綱は綱成を気に入り、娘を娶わせて北条一門に迎えるとともに、北条姓を与えたという。綱成の名乗りも、氏綱からの偏諱(「綱」の字)と父・正成の「成」を合わせたものとされる。
その後、氏綱の子である北条為昌の後見役を任され、1542年に氏綱の嫡男・為昌が死去すると、年長である綱成が形式的に為昌の養子となる形で第3代玉縄城主となった。

「地黄八幡」の闘将

1537年から上杉家との戦いや、1544年の安房里見氏の戦いなど綱成は北条家の一門を代表する武将となって各地を転戦した。なかでも1455年秋から半年にわたった「河越合戦」では上杉方の激しい攻勢から河越城を死守して1546年の「河越夜戦」で北条氏康本軍と呼応して出撃し敵を突き崩すなど、北条軍の大逆転勝利に大功を立てた。この勝利は北条氏の武蔵・北関東進出に道を開いたものとして特筆される。また綱成はこの功績で河越城主も兼ねることになったとされる。その後も北条家中随一の猛将として活躍し、第三次川中島の戦い武田方への援軍を率いて上田まで進出し、上杉謙信勢を撤退させ、里見義弘・太田資正との国府台合戦では奇襲部隊を率いて里見軍を撃砕した。武田信玄との戦いであるの三増峠の戦いでは、綱成指揮下の鉄砲隊が武田軍の左翼大将浅利信種を討ち取ったという。また、駿河深沢城攻城戦でも活躍、何度も北条氏の危機を救う活躍を見せた。

合戦では、朽葉色に染めた6尺9寸の練り絹に「八幡」と書かれた旗を指物としていたので、その旗色から「地黄八幡」と称えられた。これは「直八幡(じきはちまん)」の発音に通じるため「自分は八幡の直流である」というアピールであった

隠 居

1571年10月、氏康が病死すると、綱成も家督を子の氏繁に譲って隠居し、剃髪して上総入道道感と名乗った。

逸 話

常勝軍団

綱成は若い頃から武勇に秀で、毎月15日は必ず身を清めて八幡大菩薩に戦勝を祈願したといわれている。常に北条軍の先鋒としてその無類の強さを見せつけたため、近隣には常勝軍団としてその名がとどろいたといわれる。

「地黄八幡」の旗指物

綱成が掲げていた「地黄八幡」の旗指物は現在、長野県長野市松代の真田宝物館に現存する。これは、綱成が守備していた駿河深沢城を、武田信玄に対し開城して小田原に去った際、城内に放置されていた物である。信玄は「綱成の武勇にあやかるように」と、家臣・真田幸隆の息子・源次郎(真田信尹)に与えたとされる。(『寛政譜』巻655)

もしかしたら綱成が当主に?

少年期には評判の芳しくなかった氏康の代わりとして、北条家当主に擬する動きまであったという。

氏康との関係

氏康とは同年齢であり義弟でもあったことから信任は非常に厚く、氏康の名代として外交や軍事の全権を与えられることもあったとされる。

戦場での姿

戦場では常に勇敢で、特に野戦では大将であるにもかかわらずに常に先頭に立って「勝った!勝った!」と叫びながら突撃したとされる。その武勇には上杉軍や武田軍も恐れ、深沢城の戦いでは圧倒的な兵力差であるにもかかわらず、武田軍は綱成に苦戦したとされる。

外交上手

武勇だけでなく、白河晴綱、長尾当長、蘆名盛氏らとの外交交渉など、外交の使者として活動することもあった(白河古文書、長尾当長家臣の小野寺氏の文書など)。