ポイント
- 北条氏政の嫡男で北条家5代当主
- 秀吉の小田原征伐によって降伏
- 高野山に上り、高室院にて謹慎生活を送り死没
目 次
誕生・死没
- 誕生:1562年
- 死没:1591年
- 享年:30歳
- 墓所:神奈川県箱根町の早雲寺
名 前
- 国王丸(幼名)
- 新九郎(通称)、見性斎(号)
官位・幕職
- 従五位下、左京大夫
所 属
親 族
父 | : | 北条氏政 |
母 | : | 黄梅院(武田信玄の娘) |
正室 | : | 督姫(徳川家康の娘) |
兄弟 |
北条新九郎(若死) 太田源五郎(兄)(太田氏資の婿養子) |
|
氏房(弟)(太田氏資の婿養子) | ||
直重(弟)(千葉邦胤の婿養子) 、北条直定(弟) | ||
北条源蔵 、 北条勝千代 | ||
芳桂院(千葉邦胤の正室) 、 竜寿院(里見義頼の継室) | ||
庭田重貞の正室 、 鈴木繁光の正室 | ||
子 | 万姫(のち池田輝政養女)、摩尼珠院殿 養子:氏盛、妹(千葉邦胤室) | |
氏盛(養子)(北条氏規の子)、妹(千葉邦胤室) |
略 歴
1562年 | 0歳 | 北条氏政の嫡男として誕生 |
1568年 | 6歳 | 甲駿同盟が決裂 武田家が駿河侵攻 |
1571年 | 9歳 | 北条氏康が死没 武田家と同盟を結ぶ 上杉家と同盟を破棄する |
1577年 | 15歳 | 元服 里見家との戦いにて初陣 |
1580年 | 18歳 | 父・氏政が隠居し家督を継ぐ |
1582年 | 20歳 | 武田家滅亡 本能寺の変 「神流川の戦い」が勃発 徳川家と和睦 |
1583年 | 21歳 | 家康の娘督姫を嫁に迎える(徳川家と同盟) |
1585年 | 23歳 | 相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石の最大版図を築く |
1588年 | 28歳 | 秀吉との交渉を始める |
1589年 | 29歳 | 沼田裁定 名胡桃城事件が勃発 |
1590年 | 30歳 | 豊臣秀吉の小田原征伐 秀吉に降伏し高野山にて謹慎し「見性斎」と称す |
1591年 | 30歳 | 秀吉から罪を許される 死 没 |
概 要
北条家5代当主。北条氏政の嫡男。父や叔父の北条氏照ら強硬派を抑えることが出来ず豊臣秀吉の小田原征伐軍の攻撃を受けた。籠城3カ月ののち降伏、高野山に上り謹慎生活を送った後、秀吉から罪を許され大名復活まじかで大阪で病没した。
出 生
1562年に氏政の次男として小田原城で生まれる。兄の新九郎は早世したため、嫡男として扱われた。武田家の武田義信、武田勝頼は叔父にあたる。
今川家へ養子に?
氏直は祖父・氏康の策略により武田家によって没落した今川当主・今川氏真の養子として家督を相続させ、北条家による駿河支配の大儀名分を得ようとした。
しかし、すでに駿河は武田領国化されたため現実のものとはならなかった上、黄梅院の死去で氏政の正室がいなくなったことや氏真に嫡男が誕生したことでこの策略は白紙に終わった。1571年には氏康が死去して、氏政が名実ともに当主となり、武田との甲相同盟が回復する。
初 陣
詳細は不明だが1577年までには元服を済ませ名を「氏直」と称していた。さらに1577年11月には上総国にて対里見家との戦で初陣した。この戦いは北条家が勝利し、安房国の里見義弘と和睦し、氏政の娘が里見義頼に嫁ぐことで北条氏と里見氏は敵対関係から同盟関係に入った(房相一和)
家督相続
1580年8月19日、父の隠居により家督を継いで北条家の第5代当主となった。これは氏政の出陣中に隠居を行った異例のもので、「御館の乱」以降、武田氏と敵対関係となっており、尾張国の織田信長と同盟を結び、氏直と信長の娘の婚姻を達成してさらに同盟を強固なものとして勝頼との戦いを有利に運ぶためであったといわれ、通説では実権はなおも父が握っていたとされているが、実際には内政や家臣統制の権限は直ちに氏直に移され、軍事的な権限も一部が移譲され、氏政は外交と軍事の主要部分を担当していた。
本能寺の変後
滝川一益との戦い
1582年、信長が本能寺の変で死没すると、織田家の河尻秀隆が土豪一揆に殺害され、甲斐国が無主の国となると、氏直は叔父の北条氏邦らと共に4万3千を称する大軍をもって上野侵攻を開始した。
金窪城で織田家の滝川軍と北条軍は激突し、初戦では氏邦が率いる先鋒が敗退したが、最終戦の神流川の戦いでは氏直本軍が一益軍に勝利した。さらに敗走する一益を追って上野国から信濃国に侵攻し、佐久郡・小県郡を支配下におさめ、諏訪へ進軍し諏訪頼忠を味方に付け、中信地方を制した。
徳川家との対陣
さらに甲斐へ侵攻する氏直は甲斐北西部の若神子城に本陣を置き、新府城を本陣に七里岩台上に布陣した徳川家康軍と甲斐若神子城において対陣した。徳川軍との対陣は80日間に及んだ(天正壬午の乱)。
両者膠着状態のなか、北条に帰参していた真田昌幸や木曾義昌が離反し、家康方の依田信蕃がゲリラ活動を行い北条軍の補給路を脅かし、別働隊の北条氏忠・北条氏勝が甲斐国八代郡黒駒において徳川方の鳥居元忠らに敗退すると北条家は劣勢に陥った。
その後、織田信雄・信孝兄弟の調停もあり、10月27日、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘・督姫が氏直に嫁つぐことで両軍の和睦・同盟が成立した。
北条家の最大版図の構築
1583年に古河公方・足利義氏が死去すると、北条家は関東における身分秩序の頂点に立った。また武蔵国の江戸地域、岩付領の支配を掌握し、利根川水系と常陸川水系の支配を確保、これによって流通・交通体系を支配した。
1585年には、佐竹義重・宇都宮国綱らが那須資晴・壬生義雄らを攻めると、氏政は那須氏らと手を結んで本格的に下野侵攻を開始し、下野国の南半分を支配下に置いた。また常陸南部の江戸崎城の土岐氏及び牛久城の岡見氏を支援し、常陸南部にも勢力を及ぼした。
こうして、北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石の最大版図を築き上げた。
小田原征伐
豊臣秀吉により関東惣無事令が発令されて私戦が禁止されたため、氏直は秀吉との戦いを意識し1587年から軍備増強に務めた一方で1588年には家康の仲介も受けて、8月に叔父の北条氏規を上洛させて秀吉との交渉に臨んだ。
1589年秀吉の沼田裁定による沼田城受取後に、猪俣邦憲による真田昌幸の支城・名胡桃城奪取事件が起きて、これが惣無事令違反であるとして、秀吉との関係は事実上破綻した。このことについて、氏直は名胡桃城は北条が乗っ取ったのではなく猪俣邦憲の単独行動であることまた、既に真田に返還していることを秀吉側に釈明したがこれは認められず小田原征伐が始まった。
1590年小田原征伐が始まると。氏直はこれに対して領国内に動員令をかけるとともに、小田原城をはじめとする各支城を修築した。しかし、豊臣軍の勢いはすさまじく山中城落城により結局小田原城で籠城することになる。
籠城は4月から3カ月に及んだが、秀吉の大軍による小田原城の完全包囲、水軍による封鎖、支城の陥落などに加え、重臣・松田憲秀の庶子・笠原政晴が秀吉に内応しようとしたことなどから、氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。
処 罰
氏直は穏健派であったことと家康の婿であったこともあり助命され高野山へ謹慎。一方で強硬派であった氏政・氏照及び宿老の大道寺政繁・松田憲秀は切腹を命じられた。小田原征伐後
氏直は太田氏房・千葉直重・北条直定・北条氏規・北条氏忠・北条氏隆・北条氏光等の一門及び松田直秀・大道寺直繁・等の家臣30余名を伴って小田原を出立し、高野山に上り、高室院にて謹慎生活を送った。以後「見性斎」と称した。
大名復活へ
1591年から氏直は赦免活動(許しを得る活動)を開始した。その後、大坂で旧織田信雄邸を与えられ、秀吉と対面し正式に罪を許されと河内及び関東において1万石を与えられ豊臣大名として復活した。しかしその直後大阪で病死した。死因は疱瘡(多聞院日記によると)とされている。享年30歳であった。
その後の北条家
氏直の死後、従弟で氏規の嫡子である北条氏盛が氏直の名跡と遺領の内4,000石を相続し、1598)に氏規の跡を継いで1万1千石の大名となり、北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続した。
逸 話
決断力不足
『北条記』では、「五世の氏直君はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、みずから裁決せず、人まかせにするあやまちをおかしたために、ついにその家を失うこととなった」とある。
黒田官兵衛よ氏直
氏直は秀吉の使者として小田原城開城の説得にあたった黒田孝高に感心したとされ、家宝の「日光一文字」の太刀、北条白貝などを贈っている。