道南地方の大名、長きに渡りアイヌ人と紛争を繰り広げた戦国大名

蠣崎氏かきざきし

丸に武田菱

丸に武田菱

家系図

年 表

家 紋

丸に武田菱

主な本拠地

出 自

蠣崎氏の出自には、若狭武田氏の流れを汲む説や、南部氏の流れを汲む説があり、「新羅之記録」(江戸時代に幕命によりまとめられた蠣崎氏(松前藩)の歴史書)によれば、若狭武田氏の武田信広が1451年に若狭(現在の福井県)から下北半島の蠣崎(現在のむつ市)に移り住み、その後北海道に移り住みその地を治める豪族になったという。
信広が蠣崎を継いだ経緯については、交易問題が原因で起きたアイヌ人と北海道和人の戦い(コシャマインの乱)で、多くの和人の館がアイヌ人の陥落された。しかし当時、蠣崎氏の客将であった、信広の活躍でこの戦いを鎮圧したという。これにより蠣崎氏は蝦夷和人社会の中での地位を優位とし、支配を確固たるものとした。そして戦いでの活躍を認められた信広は蠣崎氏の婿養子となり、蠣崎信広と名乗った。

蝦夷地の支配者として

1453年頃はまだ津軽十三湊の安東氏が蝦夷地を支配していたが、信広はアイヌとの抗争を経て着実に根をおろしていった。二代・三広の時代には、それまでの上国から一歩進めて松前の大館に本拠を移し、その孫・季広のときには西蝦夷の奉行といわれる地位を得とくし、蝦夷地の中に「和人地」を確保した。

安東家からの独立

季広の三男・慶広が家督を継ぐと侵略によって得た土地を確保すべく豊臣秀吉に謁見をして蝦夷支配を認めてもらうことに成功。これによって秋田氏(旧・安東氏)から名実ともに独立する事になった。
さらに、1591年に「九戸の乱」が勃発すると、慶広はアイヌ人を戦場に引き連れていき、アイヌの毒矢を武器にして軍功をあげ、蝦夷の支配権を確固たるものにした。

松前藩の設立

豊臣秀吉の死後、慶広は家康に接近し、支配地である「松前」から姓を松前と改めた。
慶広以降、蠣崎の姓は用いず、宗家は松前を称した。その後、蠣崎家は夕張、高島、千歳方面に繁栄していった。

武 将 (名前クリックで詳細)

蠣崎光広
(1456-1518)

蠣崎家3代当主、家督就任後、本拠を松前大館に移した。およそ50年続いたアイ人との抗争のきっかけを作った人物

蠣崎義広
(1479-1545)

蠣崎家3代当主。蠣崎家の始祖・信広がアイヌの首領・コシャマインを討ったため、恨みに燃えるアイヌの大軍が度々来襲し、生涯戦いに明け暮れたという。

蠣崎季広
(1507-1595)

蠣崎家4代当主、義広の子。先祖より対立の続いていたアイヌ人との講和(夷狄の商舶往還の法度)を成立させ、蝦夷における蠣崎家の立場を確立させた。

松前盛広
(1571-1608)

蠣崎松前家6代当主。慶広の子。徳川家康が内大臣となった際、父とともに家康に拝謁した。1600年に松前藩2代藩主となるが、父に先立ち病死した。

蠣崎守広
(1564-1635)

松前藩家老。季広の十一男。兄・松前慶広から別家を立てることを許され一家を興して家臣となる。4代藩主・氏広を自宅で饗応した際、偶然火災が起こったため、その罪を負って火中に入り死去した。

蠣崎基広
(1501-1548)

蠣崎高広の子であり、蠣崎季広の従兄弟に当たる。季広の家督継承に不満を持ち、謀反を起こすがこれに破れ戦士する。

松前忠広
(1580-1617)

松前藩初代・松前慶広の次男。父から江戸で分家することを許され、徳川秀忠に仕え下総国結城で1000石を与えら、また、関が原で活躍し1000石を加増された与えられ、従五位下・隼人正に叙任する。

蠣崎慶広
(1548-1616)

蠣崎季広の三男。5代当主。秀吉に謁見し所領を安堵される。蠣崎から松前と改め松前藩の基礎をつくりあげた。

松前利広
(?-?)

松前藩初代・松前慶広の三男。松前藩家老として父の補佐を務める。後にて甥・公広が家督を継ぐと謀反を計画するが失敗し、津軽の夏泊半島に逃亡する

南条広継
(1529-1562)

>蠣崎家の重臣。季広の長女を正室に迎えるが、正室の謀反に連座されてしまい、自害する。

下国師季
(????-????)

蝦夷の豪族であったが、アイヌ民族に破れ蠣崎家にお世話になる。その後、嫡子の重季と折り合いが悪くなりセタナイ(せたない町)に移住する

下国重季
(????-????)

師季の嫡男。父の師季を追い出し下国家を継承する。

近藤義武
(????-1638)

祖父の代から蠣崎家に仕えた袮保田館主。公卿・花山院忠長が蝦夷に配流された際は、接待役を務めた。大坂夏の陣では主君・慶広に従って出陣し馬の生き血を吸っている。

長門広益
(????-????)

武勇に優れた武将。主君・季広の従兄弟に当たる蠣崎基広が謀叛を起こすと、基広を討ち取り、その首級を季広の元に持ち帰ったとさ、その功により季広から偏諱を受ける