ポイント
- 実父は大崎家の大崎教兼
- 高水寺斯波氏当主
- 高水寺斯波氏の全盛期を築く
誕生・死没
- 誕生:1476年
- 死没:1549年
- 享年:74歳
官職・役職
- 官位: 不 明
親 族
- 父 : 大崎教兼(大崎家)
- 養父 : 斯波詮重(高寺水斯波家)
- 兄弟 : 大崎政兼
- 兄弟 : 伊達成宗の正室
- 兄弟 : 内﨑兼宣
- 兄弟 : 高清水定家
- 子 : 斯波経詮
- 子 : 雫石詮貞
- 子 : 猪去詮義
略 歴
1476年 | 1歳 | 大崎家当主・大崎教兼の子として生まれる | 1495年 | 19歳 | 斯波詮重の娘を娶り高水寺城へ入城する |
1545年 | 69歳 | 雫石城、猪去館を攻め落とし南部家を岩手郡から駆逐する |
1549年 | 79歳 | 死 没 |
概 要
奥州斯波家当主。高水寺城主。1549年に南部家と戦い、雫石城を攻略した。次男・詮貞を雫石城、三男・詮義を猪去館に置いて、領内を統治した。
高水寺斯波氏は室町幕府管領家斯波氏の一族で、「斯波御所」、「奥の斯波殿」と呼ばれ、高い家格を誇る名族であった。
誕生と高水寺斯波家の相続
1476年大崎家当主・大崎 教兼の子(五男)として生まれた斯波詮高は1495年に斯波詮重の娘を娶り、下向して高水寺城を領したとされる。
勢力拡大
詮高が家督を相続した頃の斯波家は北方で勢力を拡大しつつあった三戸南部氏に圧迫されつつあり、詮高は稗貫氏や和賀氏と結んで三戸南部氏に対抗ししていた。
しかし、1540年頃に南部家が雫石城の戸沢氏を攻略し従属させると1545年に斯波領に侵攻する。詮高はこれを迎え撃つために出陣。雫石城を攻め落とし、さらに雫石領内の猪去館、太田郷にも攻め寄せて、南部氏勢力を岩手郡から駆逐させた
全盛期を築く
詮高は謀略に優れていたといわれ、一説に戸沢氏の手に戻った雫石を謀略を以て戸沢氏を攻略・放逐し、雫石城攻略後に次男・詮貞を雫石城に入れ、さらに雫石領内の猪去館に三男の詮義を配するなどして家中の結束を固め、高水寺斯波家の全盛期を築き上げた。