1.城データ
概 要
足利尊氏が斯波高経の長男・家長を奥州に下向させ高水寺城に入城させたことから始まる奥州斯波氏。
家長以降の斯波氏は現在の紫波郡・花巻市東部などの66郷を支配し、「斯波御所」と称されていた。
しかし、陸奥の南部家の南下によって斯波氏が滅亡すると、高水寺城は名を「郡山城」と改め南部家の支配下になった。
その後、盛岡城が築城されるまでの間、南部信直の居城となったが1667年に廃城、高水寺城の一部は盛岡城に使用されていると言い伝えられている。
立 地
岩手県紫波町郡山の北側、通称「城山」に構えられて平山城である。ただし、戦国時代の高水山城はさらに西側に連なる「向山」を含む広大な地域を誇った。
城山の東側は北上川が流れ、北と南には平地が開け、西側は低い丘陵が続く。
城の構造
城山山頂に本丸を置き、南に若殿屋敷、本丸の北東に右京屋敷、その北に姫御殿とされる曲輪が連なっていう。これらが城の中核部分であり、空堀や堀切で区分されている。本丸は中央から北側にかけて広く安定した平坦地になっており、南側はやや狭く北側よりも低くなっている。
また、戦国期には城山から南西側に堀きりを隔てて、向山、吉兵衛館が連郭式につづいており、山上の右京屋敷は斯波家臣の岩清水氏の屋敷、向山には向井氏の屋敷、吉兵衛館には九戸から婿養子・高田直康の屋敷があった。
ここからさらに西側には戸部の御所とされる孤立した郭(出城)があった。
周辺状況
吉兵衛館から北に200mの地点にある台地は腰曲輪が所在しておりここも斯波氏の居館と推測されている。城山の北西側には上町という町場があり、屋敷町が形成されていた。
まとめ
高水寺城は北上川に臨む城山を本城とし、そこから一門や重臣の居館や曲輪を連郭式に連ね、城山の麓と向山、吉兵衛館の南に居館や城下町をい形成している。周囲には由緒のある寺社も存在していた。