ポイント
- 上杉謙信の父
- 越後守護、関東管領を討ち下克上を起こす
- 出陣数が100回を超える猛将
目 次
誕生・死没
- 誕生:1486年
- 死没:1537年?1543年?
- 享年:51歳?57歳?
名 前
- 六朗(幼名)
官職・役職
- 従五位下 信濃守
- 越後守護代
親 族
- 父 : 長尾能景
- 母 : 玉江正輝(高梨氏の娘)
- 正室 : 天甫喜清(上条氏の娘)
- 側室 : 虎御前(古志長尾氏)(謙信の母)
- 兄弟 : 車隆景
- 兄弟 : 飯沼正清室
- 兄弟 : 上杉定実継室
- 兄弟 : 高梨澄頼正室
- 兄弟 : 為重
- 兄弟 : 景忠
- 子 : 晴景
- 子 : 仙桃院(景勝 母)
- 子 : 影虎(上杉謙信)
- 子 : 光室妙智(上条氏室)
- 子 : 松厳明貞(小黒氏室)
略 歴
1486年… | 長尾能景の子として生まれる |
1506年… | 父・能景が戦死し、家督を継ぎ、中越地方の五十嵐氏・石田氏が反乱を平定する |
1507年… | 上杉定実を擁立し、越後守護・上杉房能を討つ。(永正の乱) 本庄氏・色部氏・竹俣氏が反乱を起こすがこれを平定する |
1508年… | 関東管領・上杉顕定の軍が越後に侵攻する。為景が越中に逃亡する。 |
1510年… | 佐渡の軍勢を加え反撃に転じる 長森原の戦いで顕定を敗死させる |
1512年… | 揚北衆の鮎川氏が反逆するがこれを鎮圧 無碍光衆禁止令を発令(一向宗の信仰を禁止) |
1536年… | 国内の内乱を鎮圧するため隠居し家督を嫡男・晴景に譲る |
1542年… | 死去(越後過去名簿によると) |
永正の乱(越後国の内乱)
1507年春頃、越後守護代を継いだ長尾為景に謀反の噂が流れると越後守護・上杉房能は密かに為景討伐の準備をしていた。8月、為景は房能に攻撃される前に、房能の居館を急襲する。
房能は実兄である関東管領・上杉顕定を頼り関東へ逃亡するが、逃れる途中直峰城で為景軍の追撃を受けて、松之山に逃れる途中、8月7日午後2時頃に天水越で自刃した(永正の乱)。
上杉定実の守護就任と反対勢力
房能が死去すると、為景は房能の養子である定実を越後の新守護として盛り立てます。
しかし、阿賀北地方の本庄時長・色部昌長・竹俣清綱等はこの新守護に反対し、1507年9月に為景に対して一斉に反旗します。この挙兵の知らせを蒲原郡代の山吉氏を通じて中条藤資から受けた為景は、蘆名氏・伊達氏に協力を要請し、10月、為景方は本庄氏の拠点、本庄城を攻略することに成功すします。さらに1508年5月には色部氏の平林城が落城し、6月、岩谷城に籠城していた竹俣氏も降伏します。
残った反為景勢は会津に逃亡し、のちに蘆名氏や中条藤資の世話により為景と和睦し反乱は鎮圧します。
8月に為景は銭貨80貫文を室町幕府に献上し、11月6日、幕府から上杉定実の越後守護就任が正式に認められ、為景も定実を助け補うことを命じられたと記録があります。
永正の乱(関東管領・上杉顕定の報復)
1509年、関東管領・上杉顕定とその子憲房は実弟・房能を討ち取った為影にたいして報復を行います。
まず、大軍を率いて越後に侵攻すると越後上田荘を攻め落としここを拠点とすると、越後府中を落とし中越・上越地方を抑えます。劣勢となった為景と定実は越中国に逃亡する事になります。為景は越中国に居ながら、伊達家に援軍を要請、ほかに越後や陸奥、信濃、能登、飛騨の諸将さらに幕府とも情報を交換し越後奪還の機会を伺います。
1510年、為景が動きます。佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、4月20日に海上から越後蒲原津に進出し。5月20日には為景方の村山直義が今井・黒岩で関東管領の軍勢に勝利し、また信濃から援軍として高梨政盛も参陣し。6月12日、顕定方だった上条氏が為景側に転向し、6月20日に為景は越後府中を取り戻した。そしてついに長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ顕定を敗死させます。
「上杉家」とは違う「長尾家」というブランド価値を高める
守護代上杉顕定から越後を奪取した影景は、一向宗の信仰を禁止する
しかし、いくら地位を確立しても、長尾家はあくまでも「守護代」(守護の下)という立場だったため。為景は朝廷や幕府に小まめに即位費用等の献金を行い中央政権からの支持を得ようと心がけます。これにより朝廷からは「信濃守」、幕府からは守護と同格式である役職
を配慮し「長尾家」の権威を高めていきます。
また、越中や加賀国に転戦し、神保家や椎名家らを滅ぼし新河郡守護代を任せらえたりと
勢力を拡大していきます。
国内の反乱
越後国では、このまま守護代である長尾家による支配が続くと思われたが、越後国における真の守護・上杉定実が為景の傀儡である事に不満を抱き、実家である上条氏や揚北衆と統合して春日山城を占拠して抵抗を続けるが為景はこれを阻止し、定実を幽閉します。
しかし、今度は定実の実弟である上条定憲が反為景勢力を結集し為景に襲いかかります。一時は春日山城まで追い込まれますが、三分一原の戦いで勝利するなど一時は攻勢に出ますが、その後隠居に追い込まれてしまいます(隠居の理由については諸説あり)。
隠居後の為景
隠居後の為景は、上杉定実の後継者問題(定実に子供がいなかった)の際に、親戚である伊達稙宗息子・時宗丸(後の伊達実元)を迎え入れ、これを傀儡化し再度、越後国を支配しようとしますが、これは越後国内で反対が多かったためと、時宗丸をエサに越後国を支配しようとする伊達稙宗との思惑が一致せず交渉が打ち切られました。
その後、為景の死去後に再度この構想が再開され、奥州全土を巻き込んだ「天文の乱」へと発展していきます。