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天文の乱で稙宗側に属し活躍したが後に謀反を起こす
留守 景宗
懸田城跡
ポイント
- 伊達稙宗の義理息子
- 天文の乱で稙宗に属す
- 天文の乱終息後、謀叛を起こすが、捕らえられ斬られた。
誕生・死没
- 誕生:????年
- 死没:1553年
- 享年:?歳
官職・役職
- 官位: 不明
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懸田城跡
1544年 | ?歳 | 天文の乱勃発 稙宗側につく |
1548年 | ?歳 | 天文の乱終息 | 1552年 | ?歳 | 謀反を起こす | 1553年 | ?歳 | 死 没 |
天文の大乱に際しては舅・稙宗に属して活躍。乱の終息後、居城・懸田城を廃城とする講和条件に不満を持ち謀叛を起こすが、捕らえられ斬られた。
主君である伊達稙宗の娘を継室に迎えた。そのため稙宗とは義理親子の関係であった。
1544年、天文の乱が勃発すると俊宗は舅・稙宗側に属し、小梁川宗朝によって救出された稙宗を居城・懸田城へと迎えた。
このため、懸田城は幾度も晴宗側の攻撃にあったがこれを撃退している。
さらに、相馬顕胤らと伊具郡や伊達郡、信夫郡等に侵攻している。
1548年に天文の乱が足利義輝の仲裁によって終息した。しかし、その講和条件として居城を破却された。これを不服とした俊宗は晴宗に反抗を続けた。この反抗は5年余続いたが、1553年、家臣である中島伊勢、桜田右兵衛・玄蕃父子の裏切りによって敗れ嫡男・義宗とともに晴宗に切られ、懸田氏は滅亡した。