ポイント
- 多功城城主
- 宇都宮氏の庶流
- 家中一の侍大将といわれている猛将
- 上杉・結城連合軍を撃退する
誕生・死没
- 誕生:1485年
- 死没:1558年
- 享年:73歳
官職・役職
- 官位:不 明
略 歴
1485年… | 多功建昌の嫡男として誕生する | 1549年… | 那須高資との喜連川五月女坂の戦いで先陣として奮闘する |
1558年… | 上杉・蘆名・結城連合軍の侵攻を撃退し多くの将を討ち取る活躍を見せる(多功ヶ原の合戦) 同年死没する。 |
概 要
多功家は代々宇都宮氏の重臣として多功城を居城として、宇都宮氏の有力武士団紀清両党、大須賀党と並び、宇都宮氏の武を支えた。
宇都宮頼綱の7男・多功宗朝が1248年に下野国河内郡に入って「多功」を称したことを起源とする。つまり宇都宮家の庶流である。
多功長朝は宇都宮3世代の重臣として多くの合戦に出陣し、活躍している、宇都宮家中一の侍大将といわれている。中でも上杉・蘆名・結城連合軍との戦い(多功ヶ原の合戦)では多くの武将を討ち取る活躍みせている。
喜連川五月女坂の戦い
那須家が宇都宮領に侵攻して勃発した宇都宮VS那須の戦い(喜連川五月女坂の戦い)では、宇都宮軍の先陣として奮戦し、大功を挙げた。しかし、主君・宇都宮尚綱の討死によって敗北している。
多功ヶ原の合戦
多功ヶ原の合戦(上杉・蘆名・結城軍による多功城攻撃)では、子の多功房朝、家臣の児山兼朝、簗朝光・吉朝父子、石崎通季、野澤保辰、高木道重、上野祐朝、伊澤遠江守、木田淡路守、援軍で駆け付けた祖母井吉胤、矢板長則などを引きつれ撃退に挑んだ。
多功長朝は宇都宮3世代の重臣として多くの合戦に出陣し先陣の佐野豊綱を討ち取るなど数多くの武将を討ち取る活躍を見せている。さらには敗走する上杉軍を追って上野国上州白井まで追いかけて追撃したが、太田資正の仲介によって和睦となった