東条松平家2代目。松平義春の子。松平宗家に忠義を尽くす
松平 忠茂
概 要
松平義春の次男。兄・忠吉が今川家と対立したため、東条松平家を相続し松平宗家に忠義を尽くしこれと争う。
ポイント
- 松平義春の次男
- 兄を追放し東条松平家2代目当主となる
- 松平宗家に忠義を尽くす
誕生・死没
- 誕生:?年
- 死没:1556年
- 享年:?歳
名 前
- 甚太郎
所 属
略 歴
1549年 | ?歳 | 松平広忠が急死(暗殺死) |
1551年 | ?歳 | 兄・忠吉を追放し東条松平家を相続 |
1552年 | ?歳 | 宗家に反した大給松平を攻める |
1553年 | ?歳 | 桜井松平家と抗争 |
1556年 | ?歳 | 戦 死 |
東条松平家とは?
☆ 元は吉良家であったが父・義春が跡目を継ぎ東条松平家を樹立
東条松平家の元は東条城主・吉良家のことで、吉良家5代目当主・吉良義藤が応仁の乱の際に、同族である吉良義真(西条吉良家)に敗れ出奔したため父・松平義春が跡目(後見人とも)を継いで東条松平家と名乗った。
ちなみに義藤には嫡男・吉良持清がいたが幼少だっため、義春が継いだ。
しかし、この事実を伝える史料は少なく信憑性にかけるが、東条松平家は、松平宗家に忠義を尽くし今川氏に服属していたとされている。
誕生と家督相続
☆ 東条松平家初代当主・松平義春の次男として誕生
忠茂は前項で説明した、三河松平氏の一族・東条松平家の松平義春(右京亮)の次男として誕生した。
☆ 織田氏に味方した兄を追放し東条松平家の家督を相続
父の死後、兄の忠吉が家督を継いだ。
しかし、家督を継いだ忠吉は父・義春から続く今川氏よりの政略に反し、織田氏に味方して今川氏と対抗した。
そのため、今川義元は忠吉の追放と忠茂の家督継承を遂行した。しかし、忠茂は若年であったため、義元は今川氏の属臣・松平康親(松井忠次)を忠茂の寄騎とした。
同族内での争い
★ 同族内で織田派と今川派で別れて争いが起きる
松平宗家・松平広忠が1549年に急死して以降、松平宗家は今川氏への従属が強まっていった。
そのため松平宗家の影響力が弱まり、庶流の松平家や有力家臣のなかには宗家に反発し尾張国の織田氏に味方するものや、逆に今川氏に直接帰属して下知を受けるものが現れた。
忠茂の東条松平家も当時は今川氏の直接的な臣下として扱われていた。このため、他の有力松平分家としばしば対立し合戦に及んだ。忠茂の時に以下の合戦・係争があった。
最 後
★ 奥平氏との合戦で流れ矢に当たり戦死
1556年、忠茂は、今川氏に逆心した奥平氏を討つため、三河額田郡日近城攻めに出兵した。(日近合戦)。
しかし、城兵の放った矢に当たり重傷、家臣・平岩権太夫(元重)らに背負われて退却中、近隣の保久大林で戦死した。
嫡子で遺児となった亀千代丸は1歳の乳児であったことから、忠茂の没年齢は不明ながらも早世(20代半ば位か)であったことが想像される。