ポイント
- 筒井順慶の養子となり筒井家当主となる
- 伊賀上野藩主
- 素行の悪さから改易される
- 大坂方に内通した罪で自害させられた。
基本情報
| 誕 生 | 1562年 |
| 没 年 | 1615年(54歳)(自害) |
| 墓 所 | 奈良県奈良市小川町の伝香寺 |
| 幼 名 | 藤松 |
| 通 称 | 四郎、藤四郎 |
| 官 位 | 従五位下・伊賀守、従四位下・侍従 |
| 藩 | 伊賀上野藩主 |
| 氏 族 | 筒井氏 |
| 氏 族 | 筒井氏 |
| 主 君 | 豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠 |
| 家族構成 | |
| 父 | 慈明寺順国 |
| 養父 | 筒井順慶 |
| 母 | 大方殿(筒井順昭の娘) |
| 正室 | 織田秀子(信長の娘) |
| 側室 | 明智光秀の娘 |
| 兄弟 | 筒井玄蕃 |
| 子 | 順定、春次(春俊)、娘(鞍田九左衛門室)、娘(筒井六左衛門室)、娘(新庄直氏室)、娘(多田正吉室)、娘(加納豊前室) |
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略 歴
| 1562年 | 1歳 | 筒井順慶の子として誕生 |
| 1578年 | 17歳 | 信長の娘(秀子)を娶る |
| 1584年 | 23歳 | 養父・順慶が死去し家督を相続 |
| 1585年 | 25歳 | 紀州征伐に参陣 伊賀・山城・伊勢石20万石に移封 |
| 1586年 | 26歳 | 島左近が筒井家を出奔 九州征伐に参陣 |
| 1590年 | 29歳 | 九州征伐に参陣 |
| 1592年 | 31歳 | 文禄・慶長の役に参陣 |
| 1600年 | 39歳 | 関ケ原の戦いに参陣 |
| 1603年 | 42歳 | 伊賀上野の藩主となる |
| 1608年 | 47歳 | 素行の悪さから改易(筒井騒動) 鳥居忠政の預かりとなる |
| 1615年 | 54歳 | 大阪冬の陣にて豊臣方に内通したという理由で自害 |
家督相続
1562年、定次は大和の大名・筒井家の庶流である慈明寺順国の次男として生まれた。
しかし、主家である筒井順慶に子が無かったため、順慶の養嗣子となった。
1578年には織田信長の娘・秀子を娶った。
本能寺の変で信長が死去すると、養父・順慶は豊臣秀吉に仕えたため、定次はその人質として大阪城へ入城した。
その後、1584年に順慶が死去すると定次が筒井家の家督を継いだ。
豊臣家臣
家督を継いだ定次は「小牧・長久手の戦い」や「紀州征伐」、「四国征伐」、に参戦、紀州征伐では二尺七寸の太刀を振りかざし奮戦する定次の姿が描かれている。筒井軍は奮戦したが、その分兵の消耗も大きかったといわれている。
1585年には、秀吉による大規模な国替えにより、大和国から伊賀国上野に移封、伊賀一国12万石・伊勢国の内で5万石・山城国の内に3万石の計20万石に加増された。定次の大和には変わって豊臣秀長が入封した。
伊賀国は関東に対しての備えとしての役割を持つ街道の要衝であり、そのような重要な土地に定次を配置したことは、秀吉が定次を評価し、一定以上の信頼を寄せていたと思われる。また、定次は伊賀上野城を築城した。また、秀吉から羽柴姓を名乗る事を許され、従五位下伊賀守に任命された。
1586年には、灌漑用水を巡って中坊秀祐と島左近の間で争いが起こり、定次が秀祐に有利な裁定を下した事で、憤慨した左近が筒井家を去るという事件が起こる。筒井家を去った左近は石田三成に仕えた。松倉重政、森好高、布施慶春といった有力家臣達も前後して筒井家を去っている。
その背景には、秀祐らの台頭と専断があった。定次には、彼らを完全に抑制するだけの力量はなかったとも推測される。
九州征伐では、1,500の手勢を率いて出陣、豊臣秀長の部隊に所属し、日向高城攻めなどで活躍する。1590年の小田原征伐では韮山城攻めに参加した。1592年からの文禄・慶長の役にも手勢3,000を率いて出陣したが、肥前名護屋に詰めて、朝鮮に渡航していない。
朝鮮の役の最中、顕著な武功を立てた加藤清正に称賛の使者を送った事や、名護屋で酒色に溺れ、中坊秀祐を憂慮させている。
関ケ原の戦い
1600年の関ヶ原の戦いが勃発すると、定次は東軍に属して戦った。定次は兄・筒井玄蕃允を城に残して会津征伐へ向かったが、その間に城を西軍方の新庄直頼、直定父子に奪われた。玄蕃允は敵兵に恐れをなし開城して高野山へ逃げた。この出来事は徳川家康の耳に入り、定次は引き返して伊賀国に入った。主君の呼びかけに兵や下人らが集まり始め、大軍になった。新庄父子は勝ち目がないことを悟り、定次の嫡男を人質に和睦し。その後、定次は関ヶ原に駆けつけた。戦後、家康から所領を安堵され、新庄父子は改易された。
江戸時代
1603年、家康が江戸に幕府を開くと筒井氏は伊賀一国を支配する国持大名となり、定次は伊賀守に叙任された。
しかし、1608年、定次の重臣・中坊秀祐が定次の悪政や素行の悪さを訴えると、定次は幕命により改易となり、ここに大名としての筒井氏は滅亡した(筒井騒動)。改易の理由については、大坂城の豊臣秀頼に武家にとり重要とされる年賀の挨拶に赴き幕府の忠誠の態度を明確に示さずに日和見であり、もともと豊臣恩顧の大名であり伊賀国という大坂の近郊で軍事的な要衝の地を領していたことを幕府から危険視されたとされている。
この筒井氏から藤堂氏への交代は、家康の対豊臣策の一環として理解するのが妥当で、豊臣恩顧大名の筒井氏が狙い撃ちされたのであった。家中紛争に介入して筒井氏を改易し、豊臣恩顧大名でありながら家康の側近ともいえる藤堂高虎に伊賀を与えたことは、大坂方を刺激することなく、しかも確実に徳川方勢力を上方方面に食い込ませるという、家康の戦略によるものであった。
定次は改易された後、鳥居忠政のもとに預けられることとなった。
1615年、大坂冬の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、嫡男・筒井順定と共に自害を命じられた。享年54。切腹を賜った経緯について、『伊陽安民記』『翁物語』は、大坂冬の陣の際、城中から放たれた矢の一つに筒井家で使われていたものがあり、その矢が内応の示唆を疑わせ、自害を命じられたと記している。しかしこの矢は筒井家が改易された際に四散したものが大坂城に紛れ込んだものと考えられている。
