最上氏の重臣
天正最上の乱では、両者の仲介に奔走した。
氏家定直
ポイント
- 最上氏の重臣
- 天文の乱では義守の名代として稙宗側として出陣
- 天正最上の乱では、重病を負いながら両者の仲介に奔走した
誕生・死没
- 死没:1504年?
- 誕生:1570年?
- 享年:66歳?
官職・役職
- 官位: 伊予守
親 族
- 子 : 氏家守棟
略 歴
1563年… | 出羽国の豪族・佐々木貞綱の子として誕生 | 1504年… | 氏家氏といして生まれたとされる |
1520年… | 最上義定が死去し、2~3歳の義守に仕える |
1542年… | 天文の乱では、義守の名代として伊達稙宗側として参陣する。 |
1548年… | 天文の乱が終結すると、晴宗と義守との関係修復に尽力する |
1570年… | 天正最上の乱では病身を押して義守、義光親子の仲介に奔走する 親子の和睦後死去する。 |
出 自
氏家氏の祖先は、羽州管領・斯波兼頼が若年のおりに後見を務めた氏家道誠が、兼頼に従って出羽に入った後裔とされている。
「定直」の由来
元服時に最上義定より偏諱を受けて定直と名乗った。
天文の乱での活躍
伊達稙宗と伊達晴宗の後継者争い「天文の乱」では若年だった義守の名代として伊達稙宗側として参陣し晴宗領に攻め込んだ。
乱は晴宗方の勝利に終わるが、定直は晴宗と義守との関係修復に尽力した。
天正最上の乱
1570年、義守とその長男・義光との家督をめぐっての内紛(天正最上の乱)では、生死をさまようほどの病であったが身をを押して仲介に奔走し、父子の和睦と義光への家督譲渡を実現させた。
その後、程なく死没したとされる。