最上氏の重臣。知略に長けた将で
外交・戦と義光を多方面から支える

氏家 守棟うじいえ もりむね

氏家守棟
「長谷堂合戦図屏風」より

  ポイント

  • 最上家の重臣
  • 天正最上の乱で伊達氏との和睦交渉を担当し義光の家督相続に貢献
  • 天童氏や白鳥氏、鮭延討伐などで活躍する

誕生・死没

  • 誕生:1534年
  • 死没:1593年?
  • 享年:59歳?

名 前

  • ー無しー

所 属

官職・役職

  • 官位: 尾張守

親 族

  • 実父 : 氏家定直
  •  子  : 氏家光棟
  • 養子 : 氏家光氏

略 歴

1534年… 最上氏重臣、氏家定直の子として誕生
1574年…最上天正の乱では伊達氏との交渉役を担当
1581年…鮭延秀綱が守る真室城攻めで功績をたてる
1584年…天童、白鳥攻めで活躍をする
1590年…奥州仕置きでは山形城の留守居を勤める
1593年…朝鮮出兵に従軍
1595年…1593~1595年の間で死去したと思われる

誕 生

最上氏の家老・氏家定直の子として誕生。主君・最上義守から偏諱を受け守棟を名乗った。

天正最上の乱

謀略の才があり、義守の後継である義光から最も厚く信任を受けていたと言われている。天正最上の乱では、天正2年(1574年)に伊達氏との和睦交渉を担当した。

真室城攻め

鮭延秀綱が守る真室城攻めである。守棟は城を力攻めするのではなく、秀綱の重臣・庭月広綱を調略において味方に付け、秀綱の戦意を喪失させ、ほとんど戦いらしい戦いもなくして秀綱を降伏させた。

その他にも守棟はその長けた知恵を生かして、天童氏や白鳥氏の討伐などで功績を残した

奥州仕置きと朝鮮出兵

奥州仕置においては、上洛中の義光に代わり山形城の留守居を務め、仙北上浦郡の領有と関連して、義光と現場の鮭延秀綱・寒河江光俊の連絡を務める。

文禄2年(1593年)2月、義光と守棟は秀吉の朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にあった。この時京都で里村紹巴の一門が春の連歌会を催し、発句を義光からもらうこととなった。これに応じて、義光の発句と守棟の脇句を送った。

 梅咲きて匂ひ外なる四方もなし 義光
 幾重霞のかこふ垣内        守棟

1593年から1595年の間に死去。嫡子・光棟は1588年の十五里ヶ原の戦いで戦死したため、守棟の従兄弟・成沢道忠の子・光氏が家督を継いだ。光氏も守棟と同じく尾張守を称した為に、混同された資料もあり、晩年の業績は定かで無い部分も多い。