高水寺斯波家の最後の当主

斯波 詮直しば あきたか

高水寺城

高水寺城址

  ポイント

  • 高水寺斯波氏最後の当主
  • 滅亡後は各地に潜伏し南部家に仕える

誕生・死没

  • 誕生:1548年
  • 死没:1597年
  • 享年:49歳

名 前

  • 詮基(初名)
  • 詮元(岩手県史)
  • 民部大輔(通称)
  • 斯波御所

所 属

官職・役職

  • 官位: 不 明

親 族

  •  父 : 斯波詮真
  •  子 : 斯波詮種
  •  子 : 斯波詮森

略 歴

1548年 1歳  斯波詮真の嫡男として生まれる
1582年 34歳  南部家から岩手郡を奪還する
1586年 38歳  有力重臣・高田吉兵衛が南部家へ出奔する
1588年 40歳  南部家の侵攻を受け斯波家は滅亡する

概 要

奥州斯波家当主。詮真の子。南部信直の軍に敗れて逃走、各地に潜伏した。のちに南部家に仕えたが、大坂冬の陣の際、浪人となって京都に住んだという。

詮直以前の斯波氏

斯波氏は足利氏一門の中でも名門であり、足利将軍家に匹敵する家格を有した。
 故に詮直の家系は斯波氏としては傍系の高水寺斯波氏の生まれながらも足利氏の遠祖源頼義・義家以来の聖地ともいうべき斯波郡を領有し、また斯波御所と尊称されてきた。

 戦国時代に入り、名門の家格を保障する後ろ盾としての足利将軍家が織田信長の手により葬られ、高水寺斯波氏もまた戦国の荒波の下にさらされていた。父詮真の代には第24代南部氏当主・南部晴政と戦って敗れ、実質的には南部氏の従属下に置かれていた。

斯波家の滅亡

1582年に南部晴政が死去し、南部一族で家督相続を巡り争いが起こると、詮直は奪われていた岩手郡にすかさず侵攻し奪還した。
ところが詮直自身はあまり有能ではなかったようで、遊興に耽って政務を顧みないことも少なくなかった。
 このため家臣の岩清水義長が諫言したが聞き入れることは無く、これに不満を持った岩清水義教(義長の弟)や簗田詮泰らは、南部氏家督争いの結果、当主となった南部信直と内通して岩清水城で挙兵するほどであった。

1586年には有力重臣の高田吉兵衛(後の中野康実)が信直のもとに出奔するに至って高水寺斯波氏の動揺は抑えきれないものとなり、1588年に南部信直の侵攻を受けて詮直は敗れ、ここに戦国大名としての高水寺斯波氏は完全に滅亡したのである。

滅亡後

詮直の最期については諸説ある。
旧臣の山王海左衛門太郎のもとに潜伏し、そのまま1597年に死去したという説。
一時南部藩に仕え、大坂の陣に参陣した際に自分の身を恥じて、京都に留まり子孫は二条家に仕えたとする文献もある。