ポイント
- 白岡直朝の長男。白岡結城家7代当主
- 白岡家の最盛期を築く
- 嫡男・結城顕頼により白岡家を追放される
誕生・死没
- 誕生:1440年?
- 死没:1510年?
- 享年:70歳?
名 前
- 義永(初名)
官職・役職
- 官位:弾正少弼
概 要
白河結城家7代当主。直朝の嫡男。相馬家や岩城家と同盟し父と共に白河結城氏の最盛期を築き上げ、南奥州や北関東に権威を振るった。
白河家の最盛期
家督をついだ政朝はまず、隣国の相馬家や岩城氏と同盟を結び周りを固めたほか、豪族の石川家の一族を取り込み父と共に白河結城氏の最盛期を築き上げた。
また、1489年には伊達氏・蘆名氏・小山氏・下総結城氏と連合して佐竹氏と争った。
国外追放
1510年、政朝は勢力伸ばし官位も政朝より上官についていた有力支族の小峰氏を危惧したため、小峰氏8代当主・小峰朝脩を自害させた。
しかし、その後、嫡男・顕頼が朝脩の父・直常(政重)と手を結びに政朝を攻めると政朝は那須へ逃亡し、消息不明となった(永正の変)。
嫡男・顕頼が父・政朝を攻めた理由は、政朝が蘆名氏から後室を娶り生まれた子(五郎)に家督を継がせようとした事が原因だといわれている。
この内紛により、白河氏の勢力は衰退することになる。政朝は直常の放った刺客によって殺害されたとも言われている。