ポイント
- 白岡政朝の長男。白岡結城家8代当主
- 父と弟を追放し家督を継承する
- 那須家と生涯争う
- 長雲山智徳院を再興する
誕生・死没
- 誕生:1470年?
- 死没:1543年?
- 享年:73歳?
名 前
- 政頼(別名)、顕朝(別名)
官職・役職
- 官位:宮内少輔、左兵衛佐
概 要
白河結城家8代。結城政朝の子。父と五郎(異母子)を追放し家督を継ぐと生涯をかけて那須家と争った。白河結城家の祖・宗広が開基した長雲山智徳院を再興した。
家督相続
父・政朝は蘆名氏から後室を娶り生まれた子(五郎)を寵愛していた。
そのため、老齢になっても顕頼に家督を譲ろうとせず五郎に家督を継がせるつもりだったとされている。
家督を相続してもおかしくない年に達していた顕頼は身の上に不安を感じ、1510年、一族の小峰直常や岩城氏の援助を受けて父と五郎を追放し家督を継いだ。
しかし、この内紛を機に白河結城氏の力は衰退し、所領を多く失うことになる。
永正の乱と那須家との争い
1509年、古河公方での内乱・『永正の乱』が勃発すると顕頼は足利政氏方に味方した。
一方そのころ隣国、那須氏では顕頼の弟で那須氏の当主となった資永が那須氏の内紛に巻き込まれ自刃していた。
1520年、顕頼は報復のため、岩城氏を誘って下野国に侵略して那須資房・政資父子と争ったが、那須氏の戦略の前に敗退した。(縄釣し台の合戦で打ち破られ撤退した。)
しかし、翌1521年には岩城氏が中心となって、宇都宮氏と小田氏が岩城氏の要請で援軍として出陣し、那須氏の山田城を攻め落とし、資房の籠城する上川井城を攻撃したが、両軍ともに損害が大きく、佐竹氏の仲介で岩城常隆の娘が那須政資に嫁ぐことで和睦となった。
白河氏の跡取り
顕頼の後をついだ結城義綱だがその詳細ははっきりわかっていない。
近年では。顕頼の実子ではなく小峰氏出身者とする説も有力になりつつある。
また、政朝の後を継いだのは顕頼ではなく小峰氏から入った七郎(義綱)であったとする説もある。
それによると、政朝・顕頼父子は小峰朝脩によって追放され、顕頼は25年間会津で浪人していたが、1535年に蘆名氏・白河結城氏の両者の計らいで白河に帰国したという。その場合、顕頼の事跡とされていた那須氏との抗争などは、顕頼ではなく義綱の事跡ということになる。