佐竹家15代当主
大名としての佐竹家を確立し中興の祖と呼ばれた
佐竹 義舜
佐竹義元に太田城を奪われてから10年余り身を寄せた孫根城址
ポイント
- 佐竹家15代当主で「佐竹の乱」に終始府をうった
- 下野国に進出し、勢力拡大を図る
- 永正の乱では政氏側に付き宇都宮家と争う
誕生・死没
- 誕生:1470年
- 死没:1517年
- 享年:48歳
名 前
- 不 明
官職・役職
- 右京大夫、従四位下少将
親 族
- 父 : 佐竹義治
- 母 : 大山因幡入道常全の娘
- 正室 : 岩城常隆の娘
- 兄弟 : 佐竹周義(庶子)
- 兄弟 : 女(小野岡義森室)
- 兄弟 : 女(小場義積室)
- 兄弟 : 佐竹義武
- 兄弟 : 女(石塚義親室)
- 兄弟 : 佐竹義信
- 兄弟 : 佐竹政義
- 子 : 女(岩城由隆室)
- 子 : 佐竹周義
- 子 : 佐竹義篤
- 子 : 宇瑠野義元
- 子 : 女(江戸忠通室)
- 子 : 佐竹義里
- 子 : 一渓(幼くして出家)
略 歴
1470年… | 佐竹家第14代当主義治の次男として誕生する | 1490年… | 佐竹家15代当主となる 同族の佐竹山入家が反乱を起こし太田城を制圧される |
1500年… | 佐竹山入家の佐竹氏義に攻められ、金砂山城に逃げ込む |
1502年… | 金砂山城を佐竹山入家の佐竹氏義に攻められ、自害まで追い詰められるが、大門城に逃げ延びる |
1502年… | 陸奥の岩城氏を味方に援助を受け、常陸太田城を奪回することに成功する 佐竹山入氏の氏義・義盛父子を捕らえ殺害する |
1506年… | 佐竹山入家の一族を滅ぼす |
1513年… | 小田氏庶流である茂木氏を傘下に加え下野への進出を行う |
1514年… | 永正の乱が勃発、足利政氏の命により、岩城由隆とともに2万の軍勢で宇都宮氏の下野を攻める(竹林の戦い) |
1516年… | 再び宇都宮氏の下野を攻めるが、これに敗戦し大きな損害を出す |
1517年… | 死去 |
出 生
義舜は佐竹家14代当主佐竹義治の次男として生まれる。兄の今宮周義は側室の娘(庶子)だったため、義舜が嫡男として育てられる。
佐竹の乱
1490年、父・義治が他界し、義舜が家督を継ぐと、この直後同族である佐竹山入家の佐竹義藤・佐竹氏義父子を筆頭に、長倉氏、天神林氏、宇留野氏らと結んで反乱を起こし太田城を襲い占拠されていまいます、不意を疲れた義舜は母方の実家大山家(佐竹氏同族)を頼って孫根城に身を潜めます。(「佐竹の乱」詳細は別ページ)
1492年、佐竹山入家の当主・義藤が死去すると、和議の話が持ち上がり、義舜の正室の実家である岩城氏が仲介役となり岩城氏家老の岡本竹隠軒と山入家方の有力者の江戸通雅、小野崎親通が協議を重ねが、佐竹山入家を継いだ氏義はこれに応じず、1500年、氏義は義舜がいる大山城に攻撃を仕掛け義舜の弟である義澄を討った。弟を失った義舜は金砂山城に逃げた。さらに1502年金砂山城の戦いで、義舜は滅亡する目前まで追い込まれたが、雨嵐に助けられ形勢を逆転し滅亡を逃れた。
その後、義舜は岩城家の支援を受け反攻し、舞鶴城を奪還する、1504年には太田城の奪還に成功し、佐竹山入家の本拠地・山入城(国安城)を攻め、氏義・義盛父子を捕らえ処刑する。
1506年には、反逆した佐竹山入家の一族を全滅させ、約100年続いた佐竹の乱・山入一揆を鎮圧した。ただ、岩城家への支援の対価として所領の一部を割譲した。
永正の乱と下野進出
佐竹の乱を平定すると関東では「永正の乱(足利政氏と高期の家督争い)」が勃発します。佐竹家は政氏派として宇都宮家と争います。これは北関東の覇権をかけた争いでもあります。
1513年、義舜は小田氏庶流である茂木氏を配下に加え下野国への進出に成功します。さらに翌年には足利政氏の命により岩城家とともに2万の大軍で下野の宇都宮氏を攻めた。那須口の戦いでは宇都宮忠綱の軍勢を破り勝利、追撃を行うが竹林の戦いで宇都宮成綱の軍勢と結城政朝の軍勢に敗れ兵を引き上げた。
1516年には再び宇都宮氏を下野に侵攻し那須庄浄法寺縄釣で宇都宮氏と戦(縄釣の戦い)になるが宇都宮成綱の調略によって那須氏が寝返ってしまったために不利になり敗北、宇都宮氏の追撃にあい常陸国侵攻を許してしまうが、常陸国月居城でなんとか成綱の追撃から振り切ることに成功したが、大きな被害を出してしまった。この合戦が致命的となり足利高基が名実ともに古河公方となった。