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那須七騎の筆頭的人物として家中最大の勢力を築き主家を支える
大関 宗増
ポイント
- 那須家の重臣
- 大田原資清を家中から追放する
- 復職した資清に大関家を乗っ取られる
誕生・死没
- 誕生:1462年?
- 死没:1544年
- 享年:82歳
官職・役職
- 官位:美作守
略 歴
1462年… | 大関増雄の嫡男として誕生 | 1518年… | 大田原資清の才を妬んで家中から追放する | 1542年… | 大田原資清が帰参し、嫡男・増次に奇襲を掛け増次は敗死 |
概 要
那須家臣。福原資安とともに大田原資清を主君・資房に讒言、資清を追う。のちに復帰した資清に子・増次を討たれ、資清の子・高増に大関家を乗っ取られた。
大田原資清の追放
那須資房による那須氏再統一に功があったが、永正15年(1518年)、同僚の大田原資清の才を妬んで主君に讒言し、これを追放して専横を極めた。
天文11年(1542年)、越前国の朝倉氏の支援を受けたともされる大田原資清が帰参し、宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け増次は敗死、宗増は資清の長男・大関高増を養嗣子として迎えることを余儀なくされた[1]。主家・那須資胤との抗争
1560年、小田倉の戦いでは、白河結城氏・蘆名氏の侵攻に際し那須資胤を援け、防戦に努めたが、戦後、合戦に苦戦した事を非難され、主家と対立。(高増の動きの遅さが原因で資胤は傷を負うほど追い込まれた)
高増は大田原氏ら上那須衆と共に佐竹氏に内通した。以後、上那須衆と那須氏の間で戦いが繰り返され、1566年には佐竹氏・下野宇都宮氏も加わり資胤を攻撃。しかし資胤の奮戦に退けられ、翌年、佐竹義重と共に大崖山で那須氏と戦うが、再び退けられた。
大田原家の復習
1542年、越前国の朝倉氏の支援を受けたともされる大田原資清が帰参し、宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け増次は敗死、宗増は資清の長男・大関高増を養嗣子として迎えることを余儀なくされた。