ポイント
- 那須家18代当主・政資の次男
- 大関氏に擁立され家督を継承する
- 上那須衆と対立し隠居を条件に和睦する
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1583年
- 享年:不 明
官職・役職
- 官位: 修理大夫
略 歴
1551年… | 兄・高資が芳賀高定の調略により千本資俊に殺害される 家督を継ぐ |
1555年… | 北条氏康・足利義氏と手を結んだ。 | 1560年… | 佐竹義昭を支援し結城・蘆名と争う 小田倉の戦いで敗戦し大関・大田原と対立する |
1563年… | 大関・佐竹との戦いが1567年まで繰り広げられる |
1566年… | 大関を支援した佐竹義重の家臣・佐竹義堅と下野神長で戦い大勝する |
1568年… | 大関・大田原氏と資胤の隠居を条件に和睦する |
1570年… | 佐竹の侵攻にあう |
1572年… | 佐竹氏と和睦(佐竹義宣の婚約を成立させ、武茂地方と茂木地方を佐竹氏に割譲する) |
1578年… | 佐竹氏を中心とした連合軍に参陣する(小川台合戦) |
1583年… | 死 去 |
概 要
下野の戦国大名。政資の次男。兄・高資の横死後、大関高増らの後見で家督を継ぐ。のちに高増ら上那須衆と対立して攻撃を受け敗北、隠居を条件に和睦した。
家督相続
那須氏18代当主・那須政資の次男として誕生。森田氏を継いだが、異母兄で那須氏19代当主・高資と対立し一時行方をくらましたが、1551年、高資が芳賀高定の調略により千本資俊に殺害されると、帰参して家督を継いだ。
家督を継いだ資胤は千本資俊を却って側近として重用するなど大田原資清を筆頭とする上那須衆(大関氏・千本氏)らの意向を重視した。
当初は常陸国の佐竹氏と組み、結城氏や蘆名氏と戦っていたが、1555年に北条氏康・足利義氏と手を結んだ。
上那須衆との対立
1560年、佐竹義昭が結城晴綱と争うと蘆名盛氏が結城晴綱を、資胤は佐竹義昭を支援した。
3月26日の小田倉の戦いで、那須家が敗戦し資胤が負傷する程の苦戦を強いられ、資胤は家臣の大関高増・大田原綱清兄弟を叱責し責任を追及します。
これを機に大関氏・大田原氏らとの対立が表面化。資胤は大関高増の家臣・松本通勝に働きかけ高増の暗殺を謀るも、高増が佐竹義昭と通じ自分を討とうとするのを知ると、興野義重に備えさせた。
大関高増は資胤を排除するため、佐竹義重の弟・義尚(那須資綱)の擁立を画策する。
以後、佐竹義重の援軍を得た高増と永禄6年(1563年)から永禄10年(1567年)まで戦いを繰り返し、烏山城下まで侵攻された事もあったが、いずれも撃退した。
1566年8月24日には、大関高増を支援した佐竹義重の家臣・佐竹義堅と下野神長で戦い大勝している。
そして1568年、高増・綱清兄弟は、資胤の隠居を条件に和睦した。
その後の情勢
1570年、佐竹義重が下野大山田城を攻め落とされるが、1572年には佐竹氏とも和睦した。この際に資胤の娘と当時3歳の佐竹義宣の婚約を成立させ、武茂地方と茂木地方を佐竹氏に割譲し、那須領に佐竹氏の所領を許す形となった。
1574年には、白河義親の陸奥赤館城を巡って義親と佐竹義重が争った際、蘆名盛氏らと共に義親に助勢する。
1578年には、佐竹氏を中心に宇都宮氏・結城氏・江戸氏・大掾氏と常陸小川台(現在の茨城県筑西市)で盟約を結び、後北条氏に対抗した。
そして1583年に死去した。(死去年については1586年説もある)
その後の動き
秀吉より罪を許され、資晴自身にも5,000石が与えられて、文禄の役においても名護屋城を守備している。
1600年の関ヶ原の戦いでは子・資景が東軍に属して加増を受けた。1602年には資晴も徳川家康の御伽衆( 雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした人。)に抜粋され1,000石を加増されて、その所領は6,000石となった。
その後、1610年に死去した。
なお、子の資景は、資晴の遺領も合わせて石高が1万4,000石に達し、那須藩を立藩、養子・資弥の代に資晴の悲願であったと言われている旧領烏山城に復帰している。