葛西氏の有力被官となって活躍する

米谷 常秀こめたに つねひで

米谷城址

米谷城址 画像:もっこうさんです。

  ポイント

  • 葛西家の重臣で米谷城主
  • 葛西一揆に参加する
  • 伊達政宗により謀殺される

誕生・死没

  • 誕生:1535年
  • 死没:1591年
  • 享年:56歳

同年代の人物

  • 島津義弘、丹羽長秀、荒木村重、濃姫

名 前

  • 亀卦川常秀(別名)

所 属

官職・役職

  • 官位:右馬助、左馬允

親 族

  •  父 : 米谷常時
  • 兄弟 : 米谷常忠(弟)
  • 兄弟 : 米谷常久(弟)

略 歴

1535年 1歳  米谷常時の嫡男として誕生
1590年 55歳  奥州仕置きにより領地没収
葛西大崎一揆に参加
1591年 56歳  伊達政宗により謀殺される

概 要

武鑓城主。富沢家の叛乱鎮定や、浜田家と熊谷家の兵乱鎮圧などに従軍し、活躍した。桃生郡深谷において弟の儀信とともに伊達政宗に謀殺された。

武勇に優れた勇将

葛西晴信に仕え、各地を転戦した。当時の葛西氏は領国内で反乱や内紛が絶えず、天正7年(1579年)には富沢直綱が、天正16年(1588年)には浜田広綱が反乱を起こす。この際、重信は当主・晴信に従い、鎮圧に当たった。

奥州仕置きと葛西大崎一揆

1590年、葛西氏は小田原征伐への参陣を果たさなかったため、豊臣秀吉による奥州仕置で領国である葛西7郡30万石を没収され改易。重信も没落した。その後、重信は同じ葛西旧臣らと共に一揆を煽動させる(葛西大崎一揆)。しかし、秀吉の派遣した討伐軍との戦いにより、討死した。また桃生郡深谷において、弟・儀信や同じく葛西旧臣の米谷常秀らと共に伊達政宗によって謀殺されたとも伝わる。

参考資料(引用元)