葛西家17代当主で、最後の当主
伊達家と同盟を結び大崎家と徹底抗戦する
葛西 晴信
ポイント
- 葛西家17代当主
- 生涯大崎家と争う
- 小田原征伐に参陣出来ず葛西家は滅亡する
誕生・死没
- 誕生:1534年
- 死没:1597年
- 享年: 64歳
名 前
- 信清(初名)
官職・役職
- 官位:左京大夫
- 相模守
略 歴
1534年… | 葛西晴胤の子として生まれる | 1560年… | 兄・親信が病死し。親信の養子に入る形で家督を継ぐ |
1569年… | 上洛し織田信長に謁見し所領を安堵する。 |
1571年… | 伊達家と結び、大崎氏と戦いこれに勝利する |
1573年… | 再度、伊達家と同盟を結び、大崎氏を破る |
1590年… | 小田原征伐に参陣できず改易され、葛西家は滅亡する。 晴信自身は各国を放浪し最終的に前田利家の世話になる?、秀吉の奥州平定の徹底抗戦する? |
1597年… | 加賀で死去する(諸説有り) |
戦国大名としての晴信
葛西家15代当主・葛西晴胤の子として生まれる。継室(正式な再婚相手)である鶴楯城主・黒川景氏の娘。
1555年に父・晴胤が死去すると、家督は兄である・親信が継いだ。しかし、親信は病弱だったようで家督をついでわずか五年後に死去し、親信の養子に入る形で晴信が家督を継ぐ。
家督を継いだ晴信は、伊達家との同盟を強め、1571年、1573年に敵対した大崎家と戦ったがいずれも晴信が勝利している。また、外交活動も活発に行っており1569年には上洛し当時中央政権を牛耳っていた、織田信長に謁見し所領安堵を受ける。
1590年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、晴信は領内の情勢が不安定だったため、領地から離れられず参陣する事が出来なかったため、秀吉に領地を全て没収され、葛西家は滅亡する。
滅亡後と死亡説
秀吉によって葛西家が滅亡した後の晴信の行動には諸説ありあまり詳しくわかっていない。「葛西真記録」によると、秀吉の奥州平定に徹底抗戦したが、蒲生氏郷・木村清久(葛西の後釜)に攻められ寺地城もしくは左沼城で討ち死に(自刃)した。
また一説によると、滅亡した後は各国を放浪し、最終的には前田利家の世話になり、1597年10月9日に晴信64歳の時加賀・尾山にて死去したという説もある。