概 要
越中放生津城を拠点とする射水・婦負郡守護代及び紀伊分郡守護代。畠山尾州家の家臣。
畠山家臣として「応仁の乱」で活躍したほか「明応の政変」では失脚した足利義材を救出し越中に匿う活躍をした。
ポイント
- 越中放生津城を拠点とした越中神保家の当主
- 畠山尾州家の家臣
- 廃位された将軍・足利義材を救出し越中へ匿う
誕生・死没
- 誕生:???年
- 死没:1501年
- 享年:???歳
名 前
- 越前守(通称)
- 宗右衛門尉(通称)
- 孫三郎(通称) >
略 歴
1459年 | ???歳 | 長誠が神保家の当主として登場 |
1467年 | ???歳 | 応仁の乱 細川軍として戦う(御霊合戦) |
1493年 | ???歳 | 明応の政変 足利義材を越中で匿う |
1498年 | ???歳 | 義材が越前へ移る |
1501年 | ???歳 | 病没 |
おい立ち
☆ 父については詳しい事は分かっていない
長誠の父については詳しいことは分かっていない。
ただ、神保家の従順関係である畠山家の後継者を巡って畠山義就と畠山持富の争いで持冨を支持した神保国宗であると推測される。
神保家当主
☆ 神保家の当主として歴史の表舞台に登場
1459年、神保家の従順関係であった主君・畠山持富が畠山家の家督に復権したことにより長誠が神保家の当主として初めて歴史の表舞台に登場する。
その後、持冨が無くなるとその弟の畠山政長に従順し仕えた。
応仁の乱
☆ 主君・畠山政長と共に細川勝元に属す
1467年、主君・畠山政長が山名宗全・斯波義廉の支援を得て復権した義就に敗れると、長誠は政長に上御霊神社での挙兵薦め、これにより応仁の乱が勃発した。
上御霊で挙兵した畠山政長だったが細川勝元の支援がなく敗れてしまった(御霊合戦)。
しかしその後長誠は各地で奮戦し、上杉定正にその武勇を激賞されるなど、目覚しい活躍ぶりを見せた。その後越中へ戻り、倉垣荘など寺社本所領を押領して勢力の拡大に努めた。
明応の政変
☆ 廃位した足利義材の逃亡を助け越中に匿う
1493年、細川政元などが足利義澄を擁立して10代将軍足利義材を廃立して畠山政長を自害させた「明応の政変」が起こった。
長誠は越中に帰国中だったため被害はなかったが、部下の越中衆の多くが河内正覚寺での戦いで政長と共に殉じた。
神保・椎名両氏など越中勢力は共に打撃を受け、将軍の座を廃された足利義材は、小豆島へ配流されることが決まり、京都の上原元秀の屋敷に幽閉されていたが、長誠の配下の手により京都を脱出。長誠は、越中国の放生津に足利義材を迎えて、正光寺を改装して将軍の御座所とした。
このことにより足利義材は、越中公方と呼ばれるようになった
☆ 義材が越前へ
長誠は細川政元派の畠山基家の越中侵攻を何度も撃退して軍事力を誇示する一方、金・物質を京に送り、義材の将軍復帰に尽力した。
しかし、1498年9月に義尹と改名した義材は越前国の朝倉貞景のもとへ移った。
越前に移った理由は諸説あり、政元側との和睦を見込んだ上洛説、義澄追討のための西進説、長誠との不和に起因する越前没落説などがある。
翌年、義尹は軍事行動で上洛を図るが失敗し、周防の大内義興を頼った。この時息子の慶宗が随行したとの説もある。
死 没
☆ 1501年に病没
1501年、病没。長誠像と伝わる肖像が富山市富崎の本覚寺に残されているが、制作年代は江戸時代後期を下ると思われる。
義材の越前移動の理由
☆ 長誠との不仲説が有力
足利義材が越前に移動した理由は様々あるが富山市郷土博物館の主任学芸員・萩原大輔は越前に赴いた際の御供がわずか13人だったことなどを元に「義尹の越前移動は神保長誠らとの対立による越中退去、越前への没落と解釈すべき」としている。