目 次
概 要
細川勝元の子。京兆細川家12代当主。
勝元の死後、8歳で家督を継いだが、幼少だったため一族の政国が後見を務めた。その後、管領となって幕政の実権を握り「半将軍」とも呼ばれた。
しかし、幻術や修験道に没頭して女性を近づけず、独身を貫いたため、3人の養子をとったがかえって内乱を激化させた。
その後は家督争いの煽りを受けて暗殺された。
ポイント
- 京兆細川家12代目当主
- 幕政の実権を掌握し「半将軍」と呼ばれる
- 3人の養子をとり家中を混乱させた
誕生・死没
- 誕生:1466年
- 死没:1507年
- 享年:41歳
- 墓所:京都府京都市の大雲山龍安寺
名 前
- 聡明丸(幼名)
- 九郎(通称)
- 半将軍(あだ名)
- 大心院殿雲関興公大禅定門
官 位
- 従四位下、右京大夫
役 職
- 室町幕府 管領
- 摂津・丹波・土佐・讃岐・近江(一時的)の守護
所 属
同い年の人物
- 菊池為邦、熊谷堅直、北郷敏久
略 歴
1466年 | 0歳 | 細川勝元の着案として誕生 |
1473年 | 8歳 | 父・勝元が死去し家督を継ぐ |
1474年 | 8歳 | 西軍の山名政豊と和睦し応仁の乱が終結する |
1478年 | 12歳 | 元服する |
1482年 | 16歳 | 畠山政長と共に畠山義就討伐に向かう |
1489年 | 23歳 | 将軍・義尚が死去 |
1490年 | 24歳 | 足利義稙が将軍となる |
1491年 | 25歳 | 足利義視(義稙の父)が死去し政元が幕府の権力を独占する 九条政基の次男を養子に迎えた(澄之) |
1493年 | 27歳 | 将軍・義稙を追放し義澄を将軍に就任させる(政元が幕政の実権を握る)(明応の政変) |
1499年 | 33歳 | 義稙が北陸の兵を率いて近江に侵攻 政元の家臣・赤沢朝経が河内で挙兵した政長の子・畠山尚順を撃ち破り大和北部を占領 細川家の最大版図 |
1506年 | 39歳 | 河内国で畠山尚順と畠山義英が挙兵する 山城国守護代・香西元長が京都で挙兵 |
1507年 | 41歳 | 香西元長の間諜・竹田孫七によって、自邸で暗殺される(永正の錯乱)。 |
出 自
室町幕府三管領のひとつで足利家の血を引く、細川家(京兆家)に生まれる
室町幕府三管領のひとつ細川家に生まれる。
父は室町幕府管領として強い力を持っていた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)しかし、根拠となる史料はない。
家督相続と管領就任
分家の典厩家当主細川政国の補佐を受けわずか7歳で家督を相続
1473年、「応仁の乱」の最中に父・勝元が病死ししたため、分家の典厩家当主・細川政国の補佐を受け京兆細川家の家督を継ぎ丹波・摂津・土佐守護に就任した。
応仁の乱の終結
1474年、西軍方の山名政豊と和睦し、応仁の乱が終息した。
その後、1478年に12歳で元服し、8代将軍・足利義政の偏諱を受けて「政元」と名乗った。
畠山義就討伐
管領・畠山政長と共に畠山義就討伐に向かう
1482年、摂津国の国人が挙兵したため、畠山義就討伐に向かう管領・畠山政長と協力して連合を組み出陣したが、政元は三宅城、茨木城、吹田城を攻め落とし茨木氏など摂津国人を討伐した後は、義就に占領されていた摂津欠郡(東成郡・西成郡・住吉郡)の返還と引き換えに河内十七箇所を義就に渡す交渉をまとめ、単独で和睦して京都に撤収した。
幕府との関係
幕政の実権を握る
1489年、将軍・義尚が六角討伐(長享・延徳の乱)の最中、近江国で病死した。
政元は次期将軍として、義尚の従弟(堀越公方足利政知の子)・足利義澄を推挙するが、義尚の母・日野富子と畠山政長が擁立した、義尚の従弟(足利義視の子)義稙が10代将軍に就任した。
この結果に不満であった政元は、幕府と距離を置いた。義材の将軍就任は、幕府内で足利義視と畠山政長の権勢が高まった。しかし、その後1491年に義視が死去した後は政長が幕府の権力を独占するようになる。
公家から養子を貰う
摂関家の九条政基の次男・細川澄之を養子に迎え家督と定めた。
澄之を養子に迎えた意図として、政元には実子はもちろん弟もいないため後継者を得ておく必要性と、澄之は義澄の母方の従兄弟に当たるため足利政知との連携を深める狙いがあったとされる。
明応の政変
政元が将軍・義稙を追放し足利義澄を擁立する
1493年、将軍・義稙は畠山政長と共に畠山義豊討伐のため河内国へ出兵する。
政元はこの出兵にも反対して従軍を拒んだ。そして政元は足利義澄を擁立し日野富子や前政所執事・伊勢貞宗と組んで周到な根回しのもとクーデターを実行した、(明応の政変)
理由については、義材は政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して近江出兵と河内出兵と2度も大規模な軍事作戦を行ったこと、そして義材が自分の政策に反対する政元を討とうとしたことが原因であった。
明応の政変によって畠山家の力が衰退し、政元が将軍を傀儡化する
当初は畠山政長方であった赤松政則が政元に寝返り、畠山政長は自害し、大きな力を持っていた三管領畠山家の勢力は衰退した。
政元によって追放された義材は京都龍安寺に幽閉され、将軍職を解任され、政元が擁立した足利義澄が将軍に就任、政元は管領に就任して実権を握り将軍を事実上の傀儡にして幕政を掌握した。
諸勢力との戦い
近畿地方の反政元勢力を鎮圧していく
1499年、越中に亡命していた前将軍・義稙が北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付けた。
政元は家臣の赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行わせた。勢いに乗った朝経は続いて河内で挙兵した政長の子・畠山尚順を撃ち破り、尚順が大和国に逃げ込んだ為、そのままの勢いで大和国に攻め込んだ。そして筒井順賢・十市遠治ら尚順に与した国人衆を追討し、大和北部を占領した。
この朝経の一連の働きによって細川京兆家の版図は大幅に拡大することとなった。義稙(義材)も政元軍に敗れ、西国周防守護の大内氏のもとへ落ちのびていった。また政元は周辺国の国人の細川被官化も推し進め、実質的な細川領国化による支配勢力強化を図った。
将軍・義澄との対立
1502年、義澄が金龍寺に引き籠るという事件が発生した。そして、義澄を説得しに行ったところ、御所に戻る交換条件として出されたその条件のうちに前将軍・義稙の弟の実相院義忠を処刑せよ、というものがあり、政元は義澄を見舞いに来た義忠をとらえて殺害した。
これにより、義澄は政元によって自身が将軍を解任されて追放され、代わりに義忠が新将軍に擁立される可能性がなくなった為に大いに安堵する一方、政元は義忠の殺害によって次期将軍候補を失い、かつ前将軍・義材派からは完全に敵視される状況となり、義澄を廃する可能性も義材派と和解する可能性もなくなってその政治的選択肢は大幅に狭まった。
家督相続問題
もう一人の養子をとる
1501年、政元は家督を澄之に譲り、隠居した。1503年には、細川一門の細川成之の澄元を後嗣とした。
また、「元」の字は細川京兆家の家督継承者が用いる通字であり、これが澄元に与えられたことから、最終的には澄元を嫡子とみていたとされる。逆にそれまで養嗣子となっていた澄之にこの字を与えることはなかった。
2人の養子が家中を二分する
養子2人を迎えたことにより、政元の後継者候補は、澄元と澄之となった。政元は、摂津国と丹波国をそれぞれ2人に分与する方針であったともされるようだが、細川京兆家としての総領をいずれにするかで、内衆(家臣団)は二派に分かれて争うことになる。
三人目の養子
政元は分家の野州家からも三人目の養子である高国を迎えた。しかし、これがさらなる混乱へとつながることになる。なお高国については養子となった時期が不明であり、実は政元は後継の養子にしておらず、政元死後に高国が澄元との対立のなか自分も養子になったと言い出したという説や最初から実家の野州家を継ぐことを前提とする養子縁組であったとする説(高国の実父の細川政春には他に男子がいなかった)もある
永正の錯乱と最期
各地で反政元派が挙兵する
1505年、河内の畠山義英が畠山尚順と和睦したことから、政元と義英の関係が悪化し、政元は義英の誉田城を攻撃した。
1506年には、丹後国守護の一色義有と争っていた若狭国守護の武田元信から助けを求められたため、政元は澄之を丹後に派遣した。
政元は、澄之と澄元に円滑に家督を継承するため、澄之を丹波国守護に任じて下向させていた。河内国では、畠山尚順と畠山義英が、反政元の立場を鮮明にしたため、幕府は、赤沢朝経に命じて大和国に侵攻させた。
同じ頃、山城国守護代・香西元長が政元に背き、京都で挙兵した。幕府は、大和国にいた三好之長を元長攻めに向かわせた。
香西元長の刺客によって殺害される
政元は河内国・大和国・丹後国など多方面に細川軍を派遣し侵攻させていたため、このとき京都の身の回りの軍は手薄だった。
その隙をつかれて香西元長の間諜・竹田孫七に行水の最中に襲撃され、暗殺された(永正の錯乱)。
これによって、細川氏宗家・京兆家の嫡流の血筋は絶え、頼元の兄弟であった傍流の細川満之と細川詮春の子孫が細川京兆家の家督の地位を争うことになる。
暗殺の理由
政元の暗殺理由に関しては元々後継者として迎えた澄之であったが、細川一族と全く関係無い澄之を後継にすることに一族の反対論が多く政元自身も次第に後悔して、庶家の澄元を阿波から嗣子として迎えた。
だがこのために澄之の補佐役だった香西元長の権力が失墜し、澄元の補佐役であり政元にその軍事の才を見込まれ重用されるようにもなった三好之長の権力が細川家中で増大した。
澄元に従って阿波から来た三好之長は讃岐の政治にも介入しだしたため、讃岐出身である香西元長は憎しみを抱いた。また主君政元の問題多き性向も将来への不安となり、澄之を擁立して自らが権力を握るために暗殺事件を起こしたという。また、澄之自身も黒幕として計画に加わっていたとされている。
その後の細川家
幕府の絶対的権力者が殺害されたため各地で戦国化が進んだ
「半将軍」と呼ばれるほど力を持った政元が死亡すると、混迷した中央政界は更に不安定化して全国各地の戦国化が進み、細川京兆家も家督をめぐる内紛を重ねて政権体制、領国、家臣団ともに急速に力を失っていくことになった。
しかし、政元の築いた細川氏一強の京兆専制はその後も続き、幕府や京の都周辺は細川京兆家がなおも実質的に支配していく。
細川家の後継者問題
細川氏の血を引かない澄之の排除に関しては一族賛成するものが少なく、澄之敗死後の細川晴元・高国両派の対立は、幕府将軍の義澄・義稙両派の争いとも絡んで、20年以上の長きにわたり細川氏を二分し畿内に争乱をもたらすものとなった(両細川の乱)。
政元に始まる細川政権自体は、政元の死から約40年後の三好長慶による主君・細川晴元への下克上によって崩壊するまで続いた。
人 物
山伏信仰にハマり女性を寄せ付けなかった
政元は修験道(山伏信仰)に凝って、その女人禁制(不犯)の戒めを厳守していたため、女性を近づけることなく生涯独身を通した。
衆道(男色)
世当時の大名や武将たちにも広まっていた衆道(男色)は、政元も嗜んだようであり家臣の薬師寺元一とその関係にあったとする見方もある。
空に憧れがあった
武家においても一般教養であった和歌では、政元は鳥に関する句ばかりを集めており、空を飛ぶものに興味を持っていた。天狗の扮装をしたり高い所に上ることもあったという。
囲碁好き
肉体と精神を鍛える修験道の修行を好んでいた政元であるが、頭脳を使う囲碁好きでもあった。戦略が磨かれる囲碁は、父の勝元も好んでおり親子共通の趣味であった。
旅隙
旅や鷹狩りを好み、この時代のしかも大大名にしては異例の長旅もしており、手紙のやりとりより実際に会って直接協議するという名目で、越後国(現・新潟県)まで行っている。奥州(東北地方)へも一修験者として修行の旅に出ようとしたという。他にもたびたび畿内近辺で船旅などしている。暗殺される前にも旅に出たいとしていたが周囲に説得され断念していた。