東海地方の実力者だが桶狭間の戦い敗れた後、滅亡する

今 川いまがわ


赤鳥紋

赤鳥紋

家系図

年 表

 1433年

今川範忠が家督を継いで5代当主となる

 1433年

今川義忠が誕生

 1455年

鎌倉公方・足利成氏討伐を行い鎌倉を攻め落とす

 1461年

範忠が死没
家督を義忠が継ぐ

 1467年

応仁の乱が勃発したため上洛する
義忠が北川殿(北条早雲の姉)と婚姻

 1468年

斯波氏の遠江に侵攻する

 1471年

義忠と北川殿との間で竜王丸が誕生

 1476年

遠江遠征の帰りに義忠が討ち死(塩買坂での戦い)
今川家内で家督争いが勃発(龍王丸派(義忠の息子)VS小鹿範満派(義忠の従兄弟))
後に北条早雲が仲裁に入り小鹿範満が家督を代行する

 1487年

北条早雲が小鹿範満を襲撃し殺害
龍王丸が家督を継ぎ氏親と名乗る

 1491年

武田家の内紛に介入する

 1493年

北条早雲の伊豆討伐に兵を貸し出す

 1504年

関東に出兵し早雲と共にて関東管領・上杉顕定を破る(武蔵立河原の戦い)

 1508年

幕府より遠江守護に任命される

 1511年

遠江での斯波氏との戦いが激化

 1513年

氏親の嫡男・氏輝が誕生

 1515年

武田家と争う

 1517年

引馬城を攻略し遠江を平定し斯波義達を捕獲する

 1519年

氏親の三男?四男?として義元が誕生

 1526年

氏親が死没
家督を氏輝が継ぐ

 1536年

氏輝が死没
玄広恵探と今川義元の家督争いが勃発(花倉の乱)
花倉の乱を鎮圧し義元が家督を継ぐ

 1537年

武田家と同盟を結び武田信虎の娘を正室に迎える(甲駿同盟)
北条家と対立し河東(静岡県東部)を奪われる(第一次河東一乱)

 1538年

義元の嫡男として氏真が誕生

 1540年

織田信虎と三河で激突し敗れる(第一次小豆坂の戦い)

 1545年

山内上杉家と結び北条家を挟み討ちする(第二次河東一乱)
北条家から河東を奪取する

 1548年

第二次小豆坂の戦いで織田信秀に大勝する
松平広忠が今川家に帰属

 1549年

三河から織田勢を追放する

 1554年

甲相駿三国同盟の成立

 1558年

義元が隠居し家督を氏真が継ぐ

 1560年

2万余の軍を率いて尾張国へ侵攻を開始
桶狭間の戦いで織田に敗れる(義元戦死)

 1562年

松平元康が織田家と結び今川家から離反する
三河から今川家が撤退する

 1568年

甲駿同盟が切れる
武田家が駿河へ侵攻し駿府城を占拠
氏真は掛川城へ逃亡する。

 1569年

徳川軍が掛川城を攻め落とす
今川家の滅亡

家 紋

赤鳥紋

赤鳥紋 
家紋の由来についてはここ

出 自

★ 足利一族の流れを汲む吉良家の分家

今川氏は足利義兼(足利2代目当主)の孫である吉良長氏の次男・国氏が三河国幡豆今川庄(現・愛知県西尾市今川町)に居住し、その土地の名前を名乗ったのに始まる。

今川氏発祥地碑(愛知県西尾市)

南北朝時代

★ 足利尊氏に属し、各地で戦功を挙げ駿河・遠江の守護にのしあがる

初めは僅か三箇所の村を領有するにすぎなかったが、範国の代にいたり、南北朝の戦乱期において足利尊氏に属し、各地で戦功を挙げ駿河・遠江の守護にのしあがった。
※遠江の守護に関しては斯波氏と交互に任命されていた。
 また、今川家が領する駿河国は関東十カ国を有する鎌倉公方の配下である伊豆と甲斐に境を接していたため、室町幕府の最前戦として鎌倉公方領を監視する役割を将軍家から負わされていたともいう。

応仁の乱

★ 西軍の斯波氏と対抗また今川家内で二手に分かれる家督争いが起きる

義忠の時代になると「応仁の乱」が勃発する。今川家は東軍・細川勝元に側に付き、遠江守護となっていた斯波氏と対抗するため横地・勝間田といった国人領主との戦いを繰り広げていた。
 しかしその合戦の最中、遠江の塩買坂で横地・勝間田の残党の一揆に義忠が殺されてしまった。  そのとき義忠の嫡男・竜王丸(のちの氏親)はわずか六歳であったため。今川家内で二手に分かれる家督争いが起きる。

竜王丸VS小鹿範満

★ 小鹿範満が家督代行となるが…

六歳の竜王丸を擁立するのは瀬名・関口・新野らのグループ。対して小鹿範満(今川一族で義忠の従兄弟)を擁立するのは三浦・朝比奈・庵原氏らのグループであった。
 この抗争は 竜王丸の母・北川殿の兄である北条早雲の仲介により、竜王丸が成人するまでのあいだ、小鹿範満が家督を代行するということで収まった。
 しかし、竜王丸が成人してもなお小鹿範満は家督を竜王丸に戻そうとしなかったため、北条早雲は駿府館の小鹿範満を攻め殺害し、家督は竜王丸が継いだ。

戦国大名化へ

★ 遠江からライバル斯波氏を追放する

家督を継いだ竜王丸は名を「氏親」とあらため、遠江への再侵攻を試み、敵対する斯波氏を遠江から追放することに成功し、遠江守護職を獲得する。また、分国法「今川仮名目録」を制定し今川家の戦国大名化を成功させた。
 その後、家督は氏親の子・氏輝が受け継いだ。

花倉の乱

★ 氏輝の弟二人による家督争いが勃発!義元がこれに勝利

氏輝が24歳の若さで死没すると、今川家内で再び家督争いが持ち上がった。氏輝にはまた子がいなく、弟の二人が争うことになった。
 一人は氏輝の弟で遍照光院に出家していた玄広恵探で、もう一人は富士郡善得寺に出家していた栴岳承芳(今川義元)である。
 恵探の方が年長であったようだが、栴岳承芳の方が氏親の正室(寿桂尼)から生まれたのに対し、恵探は側室・福島氏から生まれていることもあり、家臣のほとんどは承芳側につき、恵探は「花倉の乱」で敗れ去った。

今川家の全盛期

★ 三河・尾張にまで領国を拡大していったが…

義元の代になると今川家の全盛時代となる。軍師・大原雪斎の補佐を得て、三河・尾張にまで領国を拡大していった。
 しかし、桶狭間の戦いで織田信長に敗れると義元は戦死してしまう。

今川家滅亡

★ 氏真が家督を継ぐが信玄、家康の攻撃にあい今川家は滅亡してしまう。

義元の死後、嫡男・氏真が家督を継いで10代当主となったが、もはや西からの家康、東および北からの信玄の進出を食いとめることができず、1568年駿府を追われて掛川城に逃れたがそこも支えることが出来ず遠江の掛塚湊から駿河の戸倉に逃れ、北条家を頼り戦国大名としての今川家は滅亡した。
 ちなみに氏真はその後、徳川家康に召しだされ、高家として江戸時代に名をとどめることになった。

主な本拠地

武 将 (名前クリックで詳細)

 今川範忠
(1408-1461)

範政の次男。今川家5代目当主。永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し「天下一苗字」の恩賞が与えらる。

 今川義忠
(1436-1476)

今川範忠の嫡男。今川8代当主。義元の祖父。応仁の乱では東軍に属し、遠江国へ進出するなど今川家の拡大に努めた。
幕府側に寝返った国人を打ち取った直後に残党にやられたため、反逆者として戦死し、その後の今川家の内紛のきっかけを作った。

 葛山氏広
(?-1538?1539?)

北条早雲の三男。駿河国東部の国人領主・葛山氏の養子となる。葛山氏は今川家に従属している形であったが北条氏と今川氏が争うと(河東一の乱)北条氏側に味方している。

 葛山氏元
(1408-1461)

葛山貞氏の子。葛山氏広の養子。当初は先祖に従って今川氏に帰属していたが、今川氏が武田氏に争うと武田氏に内応その後は武田氏や北条氏を頼って生き延びる。