ポイント
- 陸奥相馬家16代当主
- 伊達家と徹底抗戦した
- 小田原征伐後に所領安堵
- 関が原合戦の際に家康の召集に応じず改易されるが嫡子の働きにより撤回される
官職・役職
- 官位:従五位下、長門守
略 歴
1548年 | 1歳 | 相馬盛胤の嫡男として誕生 | 1560年 | 13歳 | 稙宗の末娘・越河御前と結婚 | 1563年 | 16歳 | 中村城代・草野直清の反乱鎮圧にて初陣する | 1565年 | 18歳 | 伊達稙宗が死を機に伊達家との争いが勃発 | 1565年 | 18歳 | 中村城代・草野直清の反乱鎮圧にて初陣する | 1575年 | 28歳 | 名取郡での伊達軍との戦いで大敗 | 1576年 | 29歳 | 小野城主・長江盛景の娘を妻に迎る 冥加山(冥護山・明護山)の戦いで伊達輝宗と戦い大勝を挙げる |
1578年 | 32歳 | 家督を相続 | 1581年 | 35歳 | 伊達家との争いがピークを迎える | 1583年 | 37歳 | 丸森城で伊達軍と対峙する | 1584年 | 38歳 | 伊達家と和睦が成立 | 1585年 | 39歳 | 二本松城救援のために北上してた佐竹家側につき伊達家との争う | 1586年 | 40歳 | 伊達家と二本松家の和議の仲介人となる 田村清顕が死去すると、田村家中では相馬・伊達のどちらにつくべきかで争いが生じ、これに伴って義胤と政宗の関係は決裂していく |
1587年 | 41歳 | 田村家と同盟を結ぶ | 1589年 | 43歳 | 伊達家に宇多郡北部の拠点を取られる 豊臣秀吉が上杉景勝、佐竹義重に伊達氏の討伐を命じる 連合軍が伊達領に侵攻するが返り討ちにあい岩城家が伊達家と和睦、伊達家に石川家が服属し、相馬家は滅亡の危機に至る |
1590年 | 44歳 | 相馬隆胤が黒木宗元・亘理重宗の兵と塚部(相馬市)の小豆畑で戦い敗北 小田原の豊臣秀吉に謁見し本領を安堵される |
1592年 | 46歳 | 文禄・慶長の役に従軍し名護屋の本宮へ在陣 |
1596年 | 50歳 | 小高へ帰陣 |
1597年 | 51歳 | 居城を小高城から北の牛越城に移す |
1600年 | 54歳 | 家康の招集に応じなかったため所領没収になりかけたが長男・相馬蜜胤の働きにより撤回される |
1603年 | 57歳 | 再び小高城を居城とし、牛越城は廃城となる |
1635年 | 88歳 | 死没 |
概 要
相馬家16代当主。15代当主・盛胤の嫡男。
伊達家の娘を正室に迎えるが後に決裂以後、伊達家と各地で抗争を展開した。
小田原征伐後に所領を安堵された後、関ヶ原合戦で家康の招集に応じず改易になるが嫡子・相馬蜜胤の働きにより改易を撤回される。
家督相続まで
1548年、相馬家15代当主・相馬盛胤の嫡男として生まれる。
1559年、伊達家の内乱「天文の乱」の最中、伊達稙宗が小高城へ来訪(相馬家は稙宗を支援していた)自分の娘を義胤の嫁に薦める。翌年の1560年にこの婚儀が成立し稙宗の末娘・越河御前と結婚した。
しかし、稙宗が死去すると、伊達晴宗との間で稙宗の遺言をめぐり領土問題が勃発。義胤は越河御前と離縁することになった。
義胤は父に付き添い各地を転戦、伊達家の家臣・亘理家と稙宗の隠居領を巡って伊具郡・亘理郡付近で争うことになった。
伊達家との抗争が続くなか、1578年に宿敵・伊達晴宗が死没、同年には父・盛胤が隠居したため義胤は正式に相馬家の家督を継ぐことになる。
伊達家との抗争の激化
1580年頃になると伊達氏との抗争が激化し、伊具郡を中心に両者は戦を繰り返すことになる。
4月10日…伊達氏が相馬の支城である新地(新地町谷地小屋、蓑首城)・駒ヶ嶺城(臥牛城)を攻略するため坂本(山元町)に出陣し。相馬父子と大坪(相馬市)で対陣する。
4月11日…相馬家の重臣であった伊具郡小斎城主・佐藤為信が伊達家へ離反。
5月1日…伊達氏が小深田(新地町菅谷)に出陣。(相馬氏勝利)
7月13日…伊達氏金山・丸森を攻める。
8月9日…伊達氏が再び小深田に出陣(相馬氏勝利)
11月15日…相馬、伊達両軍が伊具郡館山(丸森町)にて戦う。
伊達氏と一時和睦
数年争った相馬・伊達だが1584年に常陸から南奥州に進出してきた佐竹氏・岩城氏・田村氏の仲介もあり伊達氏から奪った伊具郡「金山城」、「丸森城」を伊達氏に返還し両者は和睦した。
伊達氏と決別
1585年、伊達輝宗が二本松義継に捕らわれて死去すると義胤は政宗の二本松攻めの援軍として田村清顕と共に三春城より出陣した。
しかし、佐竹義重が二本松城救援のために北上してくると、義胤は他の南奥諸大名と共に佐竹方に付いた。「人取橋の戦い」では約300騎の軍勢を率いて、蘆名・佐竹連合軍に加わり伊達政宗と対峙した。このとき義胤は田村清顕と共に政宗を説き伏せ二本松家と伊達家の和議の仲介を行っている。
同年事件が起きた。田村家当主・田村清顕が死去すると、田村家中では相馬・伊達のどちらにつくべきかで争いが生じ、これに伴って義胤と政宗の関係は決裂していくことになった。
相馬家滅亡の危機
1588年、郡山合戦で蘆名家が伊達家に敗れると、政宗は相馬側へ離反した田村家臣石川弾正を討つべく安達郡築館に出陣。義胤は弾正を支援するため出陣し両者の争いは避けて通れないものとなった。
日義胤は田村清顕継室(義胤叔母)の依頼に応じて、田村家中の伊達派を押さえ込もうと三春城入城をはかったが、伊達派の田村月斎らに銃撃されて江井胤治ら側近多数が討死し、命からがら船引城へ逃れた。(天正田村騒動)
政宗はこれを機に相馬領への侵攻を開始、相馬氏は田村領の侵攻中に新地・駒ヶ嶺を伊達家に奪われた。翌年1589年には摺上原の戦いで政宗に敗れた蘆名氏が滅亡した。
1889年7月4日豊臣秀吉は、上杉景勝、佐竹義重に伊達氏の討伐を命じた。7月上旬、相馬父子は新地・駒ヶ嶺を奪還すべく岩城常隆の援兵と共に亘理重宗を攻めたが、重宗の奥方(義胤の妹)が間に入って陳謝したため一旦引きあげてたが、7月18日、相馬勢は合計600余騎、連合軍5,000余人で中村城を出発。亘理勢と坂本犀ノ鼻(山元町)で戦った。
しかし、討伐は失敗し、10月には友軍の二階堂氏の本城須賀川城が陥落して、二階堂氏は滅亡、11月には石川昭光が伊達氏に服属、11月27日には岩城常隆が伊達氏と和睦した。
伊達氏は蘆名氏の版図勢力化に収め、相馬氏も一気に滅亡の危機に立たされることになった。
小田原征伐
1590年1月相馬家は伊達家との和睦を図るがこれが難航、そのため3月に義胤の弟・相馬隆胤が駒ヶ嶺を攻めるが敗北する。
4月3日には、豊臣秀吉が小田原城を包囲したがその後も相馬家は新地城を攻めて失敗している。5月には相馬隆胤が黒木宗元・亘理重宗の兵と小豆畑で戦い、敗北。童生淵(相馬市)で討死してしまった。一方義胤は5月下旬に、豊臣秀吉に謁見のため、義胤は相模小田原に赴いていたが、政宗の家臣・片倉景綱が秀吉に政宗留守中の戦闘(小豆畑の戦い)を言語道断とし、相馬討伐の許しを得ていた。(伊達家は大里城に拠る矢田野氏の抵抗がいまだ収まらなかったため、そちらに全勢力を傾け相馬攻めを延期した)
7月、北条氏が降伏すると秀吉は宇都宮仕置を実施、相馬家は小田原征伐に遅参したものの石田三成の執り成しで事無きを得て三郡の本領を安堵された。
豊臣政権下と関が原合戦
1592年、文禄・慶長の役に従軍し名護屋のへ在陣。
1596年には、妻子と共に小高へ帰城。嫡男・虎王の元服に際しては石田三成から偏諱を受けて「三胤」と名付け、蘆名盛隆の次女(蘆名義広の養女)を三胤の正室に迎えた(江戸崎御前)。
同年には、現在の南相馬市小高区村上海岸に面した丘陵に村上城を築き、居城の移転を進めるが、移転中の火事により焼失し、さらにこれを不吉として移転は断念された。代わりに牛越城(南相馬市原町区牛越)を建築し始め、1597年、居城を小高城から牛越城に移した。
関が原合戦が終わると佐竹家の与力大名であった相馬家は佐竹家の改易(家康の招集に応じなかった佐竹義宣は、江戸に近い常陸一国を没収され、現在の秋田県へ転封されることになった。)に連座して改易されることとなった。このとき義宣から1万石を与えるとして、家臣として誘われたがこれは丁重に断った。
改易撤回を求める使者として長男相馬蜜胤(石田三成の偏諱の三胤から改名)を江戸へ向かわせた。この時、水谷胤重が記しておいた月夜畑の戦いにおける相馬方の戦死者名簿を提出した。徳川家重臣本多正信の執り成しもあり、10月に改易は撤回され、所領安堵となった。本多忠勝の遺文『中泉記』では「武士の情け」と題する章で、相馬小太郎(蜜胤)が忠勝の機転で競馬に勝利し、所領安堵を勝ち取ったとされている。この逸話は「大穴」の語源となった。同年には徳川秀忠の養女を蜜胤の正室に迎えた。
人 物
- 伊達政宗の初陣となった1581年の矢野目の戦以来、鉾矢形の陣備を好んで用い、人数を揃え自ら先頭を進み、馬首を敵中に突っ込んで戦った。
- 1588年義胤が三春城へ入り損じたとき、相馬派の田村家臣・大越紀伊守(顕光)の小舅・甲斐守が伊達派の田村月斎、刑部(橋本顕徳)の妻子を人質に取れば城を明け渡すはずと進言したが、義胤は「男のいない屋敷に押し入って女子供を人質に取るのは恥である。敵が襲ってこれば潔く切腹するまで。」と言ってこの進言を退けた。義胤の武士道精神を伝える逸話である。
- 1600年の関ヶ原の戦いのとき、政宗は相馬領を通過するが、その前日、政宗のお迎えとして片倉小十郎が現在の南相馬市鹿島区へ、七・八百人ほどの兵を引き連れて乗り入れ、宿を取っている。このとき小十郎は盛胤付家老・加藤左近と会談し、お家は大事であるので殿(盛胤・義胤父子)をよく諌めて徳川方に付くように話している。加藤左近は承諾した。
- 1602年5月、改易を受けた義胤は三春領内大倉(田村市)一時移住することにしたが、この時三春城代であった蒲生郷成と「御入魂」の間柄になったという。(相馬藩世紀・戦国時代の相馬)
- 義胤が最晩年(80代)の頃に江戸城に登城した折、城内に入って下馬した時に丁度政宗が退出してきたが、政宗はすぐには輿に乗らずに暫く立って義胤を見送った。義胤はこれを見て、初対面の後、宮森城へ見舞に来た政宗が自分を嚇して試そうとしたことを思い出し、孫の虎之助に向かって「若い者は朝夕交わる仲でも、気を抜かずに用心すべきである。」と忠告したという。この逸話は大将たる者はいついかなる時も動じてはならないという教訓と親しき仲にも礼儀ありという二通りの意味で語られる場合がある。
- 同慶寺の住職の話や『相馬の歴史と民俗から』岩崎敏夫、「義胤朝臣御年譜一」[57]寛永12年11月16日条によれば、その遺体は遺言により甲冑を着せ、武器を持たせ、伊達氏の勢力圏である北向きに埋葬されたという。この気迫と信念が相馬を守り、寸土をも許さなかったと言われ、岩崎氏は義胤を強いばかりでなく武士道の権化であると評している。
- 義胤の書状は19通ほどしか発見されていない。このため非常に多くの書状を残した筆まめな政宗に対して、冗談やからかいで筆不精の義胤と呼ばれている。