ポイント
- 大久保忠世の嫡男。初代小田原藩主
- 姉川・小牧長久手の戦いで活躍
- 家康の不服を買い改易される
誕生・死没
- 誕生:1553年
- 死没:1628年
- 享年:75歳
名 前
- 千丸(幼名)
- 新十郎(通称)
- 渓庵道白(号)
- 忠泰
所 属
親 族
父 | : | 大久保忠世 |
母 | : | 近藤幸正(大久保家家臣)の娘 |
正室 | : | 石川家成の娘 |
兄弟 | : | 忠隣 、忠成 、 忠高 |
忠永 |
||
子 | : | 忠常、石川忠総、教隆、幸信 |
石川成堯、忠尚、忠村、貞義 | ||
娘(依田康真室),娘(久貝忠左衛門室) | ||
娘(勝蔓寺教了室) | ||
養女 | : | 養女(森川重俊室),養女(山口重信室) |
略 歴
1553年 | 0歳 | 大久保忠世の長男として誕生。 |
1563年 | 10歳 | 徳川家康に仕える |
1568年 | 15歳 | 遠江堀川城攻めで初陣 |
1570年 | 17歳 | 姉川の戦い |
1572年 | 19歳 | 三方ヶ原の戦い |
1584年 | 31歳 | 小牧長久手の戦い |
1586年 | 33歳 | 従五位下治部少輔に叙任 |
1590年 | 37歳 | 小田原征伐 武蔵国羽生2万石 |
1593年 | 40歳 | 秀忠付きの家老となる |
1594年 | 41歳 | 父・忠世死去 大久保の家督を継ぐ |
1600年 | 47歳 | 関ケ原の戦い |
1610年 | 57歳 | 老中に就任 秀忠政権有力者となる |
1611年 | 58歳 | 嫡男・大久保忠常が死去 |
1614年 | 61歳 | 家康により改易され近江国に配流される |
1628年 | 75歳 | 死去 |
家康の重臣として
☆ 各地の戦いで活躍
1563年頃から徳川家康に仕え、初陣は15歳の時に遠江堀川城攻めで、敵将の首をあげる武功を立てた。
その後三河一向一揆、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに従軍し活躍した。
☆ 三方ヶ原合戦
武田家との三方ヶ原の合戦では、徳川軍が敗走するなか、家康のそばを離れず浜松城まで従ったことを家康に評価され奉行職に列した。
☆ 本能寺の変
本能寺の変では家康の伊賀越えに同行した後、甲斐・信濃平定事業においても切り取った領国の経営に尽力した。
忠隣の家臣であった長安も辣腕を発揮し、忠隣から大久保の姓を与えられた。
☆ 関東入国
小田原征伐後、家康が関東に入国すると忠隣は武蔵国羽生2万石を拝領し、家康の嫡男・徳川秀忠付の家老となった。
1594年に父・忠世が死去すると、家督を継ぐとともにその遺領を相続して相模国小田原6万5,000石の領主(のちに初代藩主)となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する(上田合戦)。
☆ 関ケ原合戦
1600年、「関ヶ原の戦い」の戦いが始まると、忠隣は東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立すした。
その後、上野高崎藩13万石への加増を打診されるがこれを断った。1610年には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の政権有力者となった。
改 易
☆ 嫡男・忠常の死
1611年、嫡男・大久保忠常を病で失うと、大久保家の権勢に衰え始めた。
嫡男の死に意気消沈した忠隣は、以後政務を欠席することがあり、家康からの信頼も落ちはじめていた。また、秀忠が忠隣のために精進落としの宴を開こうとしたが、忠隣はこれを断り、他の老中の反感もかったとされている。
☆ 改 易
1613年、山口重政が幕府の許可なく忠隣の養女を、子の重信に娶らせたとして改易になった。
この件は忠隣の発言として、以前に養女の実祖父・石川家成が婚姻の件を伝え許可を得たため、改めて自身が許可を得る必要はないとして、秀忠の許可をもらわなかったとされている。
また、このころ忠隣は謀反を企んでいるという噂もあった。
このような理由から、忠隣は家康から改易を言い渡され、居城の小田原城は本丸を除き破却され、父・大久保忠佐の居城三枚橋城も破却され忠隣は近江国に配流され、井伊直孝に御預けの身となった。
このとき、栗太郡中村郷に5,000石の知行地を与えられている。忠隣は天海を通じて弁明書を家康に提出したが、家康はこれを見るも特に反応は返していない。
☆ 死 没
改易後、忠隣は出家して「渓庵道白」と号し、1628年6月27日に死去した。享年75。将軍家の許しが下ることはついになかった。
忠隣死後の大久保家
☆ 近江膳所藩主から伊勢亀山藩主として
忠隣の累代における武功が大きかったことから、大久保家の家督は嫡孫の忠職が継ぐことが許され、その養子で忠職の従弟・忠朝のときに小田原藩主として復帰を果たした。また、連座で謹慎していた次男の石川忠総は復帰を許され、大坂の陣で戦功を挙げたことから最終的に近江膳所藩主となり、子孫は伊勢亀山藩主となった。
改易の理由
☆ 無断婚姻と謀反の疑い
改易の理由については"無断婚姻"と旧穴山衆の浪人・馬場八左衛門が忠隣を"謀反の疑いあり"と訴え出たことが原因とされている。
☆ 政敵・本多正信の策略
忠隣の政敵でもあった本多正信・正純父子が、策謀をめぐらせ忠隣を追い落とする説もある。
正純は岡本大八事件に部下が関与したことで政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣を排斥することで足場を固めておきたかったと考えられている。その結果、忠隣の改易により本多親子の権勢は以前の10倍になったとされている。
☆ 家康の策略
豊臣政権を排除しようとした家康が、西国大名と親しく、和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説もあった。
人物・逸話
☆ 茶道好き
茶の湯を好み、古田織部に学んだ茶人でもあった(『茶人系譜』)。
数寄屋や植え込みに工夫を凝らし、上方大名との接待に用いていた。また使者にも茶を出したうえ、馬も与えていた。このため忠隣は奥州より馬を大量に購入し、江戸・小田原に置いていた。正信はこれらの行為に異議を唱え、小田原からの転封を申し出るべきと助言したが、忠隣は自身が小田原を拝領するのは当然と答え、その発言が問題になったとある
☆ 秀忠との絆
関ヶ原の戦いの後に、家康の後継者を決める会議の際に、秀忠の兄の結城秀康や弟の松平忠吉の名前が挙がるなか、忠隣は秀忠を推薦した。
また、秀次事件の際、豊臣秀次が秀忠を人質にして家康に仲介してもらう使者を徳川に送った際には、忠隣はこの使者を2度も巧みに追い返し、その間に秀忠を伏見屋敷に避難させたという