【戦国時代の名刀と名馬】


1 .戦国時代の刀について

戦国時代の刀はとても貴重で贈答品や戦功等の褒賞品としても使われていた。
戦国時代になると刀作りは各地で行われており。中でも備前国と美濃国が生産拠点の双璧を成した。他には豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が盛んに刀治が行われていた。ちなみに、死体を試し切る事により当時は刀の切れ味を証明して、死体を2つ重ね合わて切ったのが2つ胴、3つ重ねて切ったのが3つ胴とされ、当然より多くいっぺんに切ったのが優れた刀とされていた。
ちなみに合戦中は2〜3人の人間を切ってしまうと、その脂で刀が使い物にならなくなるため、スペアの刀を2〜3振り用意していた。


2 . 名刀

・大典太光世

所有者:足利家→豊臣秀吉→前田利家

天下五剣の1つであり平安時代後期に打たれた刀。元々は足利将軍家の家宝であったが、足利家の没落後、秀吉に渡りその後、秀吉が前田利家に贈ったとされる。江戸時代、幕府の首切り役が大典太光世で試し切りを行ったところ積み重ねた2体の死体を切断し3体目の背骨で止まったと言う。

・鬼丸国綱

主な所有者:足利家→織田?豊臣?→徳川家

天下五剣の1つであり平安時代後期に打たれた刀。元々は足利将軍家の家宝であったが、足利家の没落後、秀吉に渡りその後、秀吉が前田利家に贈ったとされる。江戸時代、幕の首切り役が大典太光世で試し切りを行ったところ積み重ねた2体の死体を切断し3体目の背骨で止まったと言う。

・雷切丸(千鳥)

所有者:戸次鑑連(後の立花道雪)

柄に鳥の飾りがあった事から「千鳥」と呼ばれていた。鑑連が30半ばの頃、「千鳥」で雷の中の雷神を切ったと言い伝えられている。このことから刀の名前を「千鳥」改め「雷切丸」としている。また、鑑連はこれ以降下半身不随になる。

・童子安綱

所有者:足利→豊臣→徳川

丹波国に住み鬼「酒呑童子」の首を切り落としたという伝承から「童子切り」という名がついた。
足利義昭が豊臣秀吉に贈り、秀吉が徳川家康に贈り、家康が子の秀忠へと受け継いだとされる。

・歌仙兼定

主な所有者:細川家

名前の由来は初代熊本藩主・細川忠興の跡を引き継いだ2代目熊本藩主・細川忠利の家臣の補佐が悪かった事に対して怒った忠興が家臣36人をこの刀で切った事から三十六歌仙に因んでつけられたと言われています。

3 .戦国時代の馬について

当時の武将達は馬を我が子の様に可愛がり大事に育てたと言う。人は裏切るが動物は裏切ら無いと考えていたからである。
戦国時代、合戦で乗られていた馬の丈は平均123cmと現在の競走馬(平気丈160cm)よりも大分低く、足は太く短く、ズングリ体型の馬が多かったと言われている。当日の男性の平均身長は約157cmとされている事かズングリ体型の馬が武将達に合っていたと思われる
また、馬には早く走る事よりも、他の馬との協調性や、主人の言うことを従順に聞く、というような穏やかな性格の方が重視されていた。

戦国武将の馬の扱い

戦国武将はそれぞれお気に入りの馬を大事にしてきたが、1頭とは限らなかった。もっとも1番のお気に入りは1頭ですが、次のお気に入りが数頭、と言った具合にランク付けしていました。武将達は合戦の際にも、これら数頭の馬を引き連れて戦いに向かいました。合戦中は本命馬が疲れると次の馬に乗り換え、また疲れると次の馬とこれを繰り返していました。騎馬軍団として有名な武田軍は常に3〜4万頭もの馬を持っており、信玄も必ず2〜3頭の替え馬を携えて合戦におもむいたと言う。


戦国武将達の愛馬

・黒雲(くろくも)

武田信玄の愛馬
気性が非常に荒く、信玄以外に騎乗出来なかったと言われている。

・鬼鹿毛(おにかげ)

武田信虎の愛馬
尺が148cmと当日の馬の中では最大級の馬、信玄が父信虎に所望したが信虎は聞き入れなかったとする逸話がある。

・大鹿毛(おおかげ)

武田勝頼の愛馬
武田家滅亡後は、織田信忠の愛馬となった。秀満の愛馬にも「大鹿毛」と言う馬が居るがそれとは別馬。

・白石(しろいし)

徳川家康の愛馬
名前は「白石」であるが黒毛の馬である。家康自慢の早馬で関ヶ原合戦の際もこの馬に乗って疾走したらしい。

・三国黒

本田忠勝の愛馬
徳川秀忠から拝領した。関ヶ原の戦いでは被矢した。

・放生月毛

上杉謙信の愛馬
川中島の戦いにおける武田信玄との一騎打ちで騎乗していたと言われる。「月毛」とはクリーム色の事である。2頭の愛馬がいて、全体が白いのが「駆」、毛口の周りが黒いの「詮」と使い分けていました。

・松 風

前田利益の愛馬
前田利家を水風呂に騙して入浴させ、前田家を出奔した際に奪った。並外れた早さで走り、勇猛果敢で体力も抜群、凡馬では三日ともたないほどの巨体の前田利益を乗せて悠然と戦場を駆けた。

・百段(ひゃくだん)

森長可の愛馬
長可の居城である金山城の石段100段を駆けあがれるほど健脚を持っていたため、「百段」と名付けられたと言われているが真相は定かでは無い。

・大鹿毛(おおかげ)

明智秀実の愛馬
山崎の戦いに敗れ、敵に囲まれた秀満を乗せて打出浜から、馬に騎乗したまま琵琶湖を渡り坂本城に帰還させたと言う。(左馬之助の湖水渡り)