概 要
平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男。父・清盛が死没すると家督を継ぐ。壇ノ浦の戦いで源氏に破れると捕縛され処刑される。
ポイント
- 平清盛の三男。清盛死没後の平氏棟梁
- 壇ノ浦の戦いで破れた後に源氏に捕縛され処刑される
目 次
誕生・死没
- 誕生:1147年
- 死没:1185年
- 享年:39歳
- 墓所:滋賀県野洲市の胴塚
名 前
- 屋島大臣(通称)
親 族
父 | : | 平清盛 |
母 | 平時子 | |
正室 | : | 平清子(平時信の子) |
継室 | : | 不明(能宗母) 、平教盛の娘 |
兄弟 | : | 重盛、基盛、宗盛、知盛、徳子 |
盛子、重衡、完子、知度 | ||
清房、御子姫君、ほか | ||
子 | : | 清宗、能宗、男児、男児 |
女子(平通盛室) |
略 歴
1147年 | 1歳 | 生誕 |
1156年 | 10歳 | 保元の乱が勃発する |
1159年 | 13歳 | 平治の乱が勃発する |
1162年 | 15歳 | 左馬頭となる |
1167年 | 20歳 | 重盛が平氏の棟梁となる |
1170年 | 23歳 | 権中納言に昇進 |
1177年 | 31歳 | 右大将に就任 |
1178年 | 32歳 | 権大納言に就任 |
1179年 | 33歳 | 治承三年の政変が勃発 |
1180年 | 34歳 | 源頼朝挙兵 |
1181年 | 35歳 | 父・平清盛が死没 |
1183年 | 37歳 | 倶利伽羅峠の戦いで大敗 |
1184年 | 38歳 | 一ノ谷の戦いで大敗 |
1185年 | 39歳 | 壇ノ浦の戦い 平氏滅亡 死没 |
出 生
1147年、清盛(30歳)と時子(22歳)の間の子として生まれる。異母兄の重盛は10歳だった。二人とも正室の子として生まれてはいるが母親は異なり、また本人たちの年齢も10歳差と離れていたため、誕生した時から重盛と宗盛は対立していた。
保元の乱が終結すると宗盛は11歳で従五位下に叙せられている。この叙爵の年齢は清盛・重盛より早く、正室・時子の長子として優遇されていたと推測される。
平治の乱
1159年、後白河院政派と二条親政派の対立「平治の乱」が勃発する。清盛は二条親政を支持する姿勢を示すために、宗盛を二条天皇の側近として送り込んだ。
左馬頭就任
1162年、宗盛は左馬頭となる。左馬頭は宮中の軍馬を管理する馬寮の長官であり、平治の乱以前は源義朝が務めていた。軍事貴族にとっては極めて重要な官職であったため、平治の乱以降は重盛が任じられている。この日、重盛は右兵衛督となっているので、これもまた、重盛が左馬頭を辞任したことによる後任人事と見られる。なお、宗盛が辞任した後の左馬頭は重衡であり、馬寮を平氏一門で独占しようとする清盛の強い意思が感じられる。妻・清子の死
1178年、徳子(妹)の懐妊が明らかとなり、翌月には宗盛の妻・清子が乳母に選ばれた。しかしその直後、清子は腫物が悪化して死去してしまう。この時、宗盛は悲嘆のあまり右大将を辞任している。その後、宗盛は右大将に復帰して春宮大夫となったが、すぐに大夫の地位を花山院兼雅に明け渡した。妻の死後、宗盛は政治への意欲を失ったらしく、1179年には権大納言・右大将も辞任してしまう。この理由として宗盛の精神的弱さや、清盛と後白河法皇の対立の中で苦境に陥ったことも理由の一つと推測される。
治承三年の政変
1180年、平氏一族の盛子と重盛が立て続けに無くなった。後白河法皇はその荘園・知行国を没収し、さらに清盛も意見も聞かずに清盛の娘婿・近衛基通を無視して、松殿基房の子・師家を権中納言に任じた。
これに激怒した清盛は、11月14日に上洛してクーデターを起こす(治承三年の政変)。
清盛は朝廷内の反平氏方を次々と解任し、後白河法皇の幽閉・院政の停止を行い、それらの措置を済ませると清盛は福原に引き上げた。京都に残された宗盛は、相談もなく始まったクーデターに困惑していたが後始末をつけねばならず、院近臣の追捕・所領の没収を行った。この時に以仁王の所領を没収したことが、後に繋がる、以仁王の挙兵の直接的な原因となる。
仁王王の挙兵
1180年、以仁王のが平氏打倒を掲げ挙兵した。以仁王を匿う園城寺との間で身柄の引渡し交渉が行われたが決裂となり、宗盛以下10人の大将による園城寺攻撃が決定する。ところがそのうちの一人だった源頼政が以仁王に合流し、延暦寺大衆300人の参加、さらには興福寺の蜂起といった情報も伝えられるなど、事態は一挙に深刻なものとなり洛中は混乱に陥ったが、26日、平氏軍が以仁王・頼政を討ち取ったことで乱は終息する。30日、追討の賞として宗盛の子・清宗が従三位に叙せられた。清盛の孫では最初の公卿であり、年長である平維盛・資盛(ともに重盛の子)を超えたことで、平氏の嫡流が小松家から宗盛に移ったことを示すものとなった。
源氏挙兵
清盛は周囲を反平氏勢力(神社等)に囲まれ地勢的に不利な京都を放棄し、一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市和田岬付近)への遷都を目指して、「福原京」の設立を強行した。
仁王王の反乱が終結すると今度は伊豆の源頼朝、甲斐の武田信義らが挙兵した。平氏は追討軍を東に送るが、富士川の戦いで追討軍が大敗したという報告が届くと、宗盛は都を京に戻す「還都」を進言して清盛と激しい口論となり、周囲の人々を驚かせたという。従順だった宗盛までが反対意見を述べたことで、今まで押さえ込まれていた還都論は一挙に再燃する。清盛も還都に同意せざるを得なくなり帰京した。
清盛の死
1181年、関東への追討使として宗盛が自ら出馬して反乱軍を追討する予定だったが、清盛の危篤状態に陥り追討は延期となる。
それからしばらくすると、清盛は死去した。清盛の死によって、宗盛が平氏の棟梁の座を継いだ。清盛は死の直前、後白河法皇に宗盛と協力して政務を行うよう奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事、偏に前幕下の最なり。異論あるべからず」と言い残したという。
清盛の死後
清盛の死後、宗盛は後白河法皇に恭順する姿勢を示した。東国の戦況が好転したことで、宗盛は西国反乱の鎮圧に乗り出す。しかし、各地の反乱で敗退が続き、北陸道でも反乱が起こるなど事態は悪化の一歩をたどった。
このような中で、源頼朝は後白河法皇と宗盛に和平を申しでた。戦乱の長期化は荘園領主にとって年貢納入の激減を意味したため、後白河法皇は宗盛に和平を打診した。宗盛は後白河法皇が頼朝と独自に交渉したことに激怒し、その和平案にも一定の理解を示しながら、「我が子孫、一人といえども生き残らば、骸を頼朝の前にさらすべし」という清盛の遺言を盾に頼朝との徹底抗戦を示した。
北陸討伐
宗盛は東北の反乱軍を追討すべく、平維盛(清盛の孫)を総大将とする10万騎とも言われる大軍を北陸道に派遣。しかし、この追討軍も倶利伽羅峠の戦いで壊滅しこれまで維持されてきた軍事均衡は完全に崩壊した。
京都陥落
源氏軍である義仲軍・行家軍が京に攻撃をしかけた。京は陥落し、宗盛は一門を引き連れて、福原から海路を西へ落ち延び九州の大宰府を目指した。
源氏の手に落ちた後白河法皇は「前内大臣が神鏡剣璽を持ち去った」として平氏追討宣旨を下す。ここに平氏は賊軍に転落することになり、味方を集める事が困難となった。
一ノ谷の合戦
勢力回復
西へ逃亡を図った宗盛は阿波国の田口成良の支援により四国に上陸した。平氏軍は四国渡海を試みる矢田義清を水島の戦いで破り、義仲軍の進撃を食い止める。さらに後白河法皇と頼朝の提携を聞いた義仲が京都に急遽引き返すという幸運にも恵まれ、宗盛は屋島を新たな本拠地とし、瀬戸内海の制海権を掌握し、勢力回復に成功した。その後も海を渡って備前国に進出し、室山の戦いで源行家を破り、播磨国・室の津を支配下に置いた。
一ノ谷の戦い
1184年、後白河法皇の意向により平氏追討が決定され頼朝軍に平氏討伐の命令が下された。
宗盛は福原(兵庫県神戸市)に陣営を置いた。福原は北に山が迫り、南に海が広がるという天然の要害であり、東西の守備を固めれば難攻不落と言われ、宗盛は強固な防御陣を構築した。
しかし、この戦いは源義経の活躍(ひよどり越え)もあり、平氏軍の一方的敗戦に終わり、宗盛らは命からがら屋島に落ち延びたが、この戦いで平氏は平忠度・清房・清貞・知章・通盛・業盛・経正・経俊・敦盛・師盛などの一門や、有力家人の平盛俊を失い、再起不能とも言える損害を負った。
また、この戦いの直後に宗盛は京都奪還を断念し、神器・天皇・女院の帰京と引き換えに讃岐国を知行国として安堵するよう後白河法皇に嘆願している。しかし後白河法皇は神器よりも平氏追討を優先していたため、全く取り合わなかった。
屋島・壇ノ浦の戦い
屋島の戦い
一ノ谷の戦いで兵力の大部分を失った平氏は屋島・彦島の海上基地を生命線としてひたすら防御を固めた。源範頼軍が西国に侵攻すると平氏は陸上戦闘を回避し、水軍により断続的な攻撃を行うことで戦局を打開しようとする。範頼軍は長門国に達したものの水軍力の不足から彦島を攻略できず、兵粮の欠乏や軍の士気低下に陥り、状況は平氏にとって有利に展開していた。
しかし、平氏の本拠地・屋島は背後から義経軍の奇襲を受け、屋島の内浦は炎上し、宗盛はあわてて海上に逃れた。この結果、平氏は本拠地だけでなく瀬戸内海の制海権も失うことになった。時を同じくして九州に渡海した範頼軍に原田種直が撃破され(葦屋浦の戦い)、平氏は完全に包囲される形となった。
屋島の戦い
平氏は彦島に残存兵力を結集して最後の戦いを挑んだ(壇ノ浦の戦い)、しかし、この戦いでも敗れ平氏は滅亡した。宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の清宗とともに引き上げられ捕虜となった。
最 期
壇ノ浦の戦い後、宗盛は他の捕虜とともに厳しく警護のもと帰京した。見物人が群れを成して見送ったという。
その後、宗盛は義経に連行されて鎌倉に入った、宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出される。頼朝は勝者として簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせたという。
その後、宗盛は京都に送還され、21日に義経の命を受けた橘公長の手により、近江国篠原宿で斬首された。享年39。嫡男・清宗、次男・能宗(幼名・副将)、その他男児二人(名前は不明)も順次処刑され、宗盛の男系血統は途絶えた。『平家物語』では「父子とも野洲で」、『源平盛衰記』では「6月22日に父子とも勢多で斬られた」とも記されている。
人物
性 格
愚鈍な上に傲慢な性格で、思い上がった振る舞いが多く、そのために他の氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物とされている。
愛妻家
妻が出産で亡くなった時には官職を返上してその死を嘆き、その妻の遺言で遺児である副将(能宗)を乳母に預けず自分の男手で育てた事や、『平家物語』では処刑の直前の最期の言葉が「右衛門督(清宗)もすでにか」と我が子を思うものであるなど、妻子への情愛深い家庭人であった事が伺える。
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いで破れた平氏一門が次々と入水して自害するなか宗盛は生き延びた。これには諸説あり、水泳が上手なため、浮き上がり浮き上がりする中に、生きたいと思うようになった。(愚管抄)や『平家物語』では西国で死ぬはずだった身が、生きながら捕らわれて、京・鎌倉に恥を晒すのも、右衛門督(息子・清宗)のためだった」という宗盛の言葉を記しており、子への愛情が死をためらわせる原因だったとしている。 宗盛は長男清宗と同様、肥満だったため浮きやすかったとも言う。
最期
壇ノ浦の戦いの後、捕虜となった宗盛は勧められた食事もとらずに泣いてばかりいて、頼朝との対面では弁明もできずひたすら出家と助命を求め、集まった者から非難・嘲笑されたという。
逸 話
名馬の強奪
源頼政の嫡男・仲綱の所有する名馬「木下」を欲しがり、地位と権勢にものをいわせて強引に借り受けると二度と返さず、その馬の名前を「仲綱」と改め、馬の尻に「仲綱」の焼印までして社交の場に率いてゆき、源仲綱に屈辱を味わわせる。その恨みが後の源頼政の挙兵の一因とされる。(『平家物語』)
源競による報復
源頼政が挙兵すると、その配下にいた渡辺党の武者で武勇の誉れ高い源競(みなもと の きそう)は、愛馬を奪われた仲綱の恨みを晴らすため、偽って宗盛に寝返り、競を気に入った宗盛より名馬を譲り受ける。既に自分の名馬を持っているのにまた他人の名馬(仲綱の「木下」)を欲しがる宗盛を軽蔑した競は、その名馬で再び頼政の陣に戻り、その馬のたてがみと尾の毛を切り、尻に「昔は煖良、今は平宗盛入道」の焼印をして平家方に突き返す。激怒した宗盛は自らの手で競を八つ裂きにするため、配下の武者たちに競を殺さずに捕えるよう命じるが、競は獅子奮迅の活躍の末に壮絶に斬り死に、平家方の武者たちにまで賞賛される。翻って宗盛の狭量さは同じ平家方の武者たちからも軽蔑される。(『平家物語』)
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いで破れた平氏一門が次々と入水して自害するなか宗盛は生き延びた。これには諸説あり、水泳が上手なため、浮き上がり浮き上がりする中に、生きたいと思うようになった。(愚管抄)や『平家物語』では西国で死ぬはずだった身が、生きながら捕らわれて、京・鎌倉に恥を晒すのも、右衛門督(息子・清宗)のためだった」という宗盛の言葉を記しており、子への愛情が死をためらわせる原因だったとしている。
母・時子との関係
壇ノ浦の戦いにおいて、醜態をさらす息子を見た時子は、宗盛は清盛と自分の子ではないと言った。 清盛との間にできた子が女子であったため、男子を望んでいた清盛のことを考え、京の傘売りの子と実子を取り替えたのだという。捕虜になった際に宗盛は自らこの説を認め、平家の血筋でないことを理由に命乞いをしたとされる。(『源平盛衰記』)
捕虜となったその後
宗盛は捕虜として、今の逗子付近にしばらく軟禁されていた。地元の領民は、宗盛を始めは快く思っていなかったが、子供と戯れるなど、他の武士には欠けている人間的な情愛を感じて徐々に心を許したという。処刑後は宗盛の死を悼む者が多く、頼朝へ報告する者がいたが不問に付したという。