出羽鮭延城主
短編小説「乞食大名」の主人公

鮭延 秀綱さけのべ ひでつな

鮭延秀綱

鮭延秀綱
「長谷堂合戦図屏風」より

  ポイント

  • 出羽鮭延城主城主
  • 最上義光に降伏し以後、最上氏家臣となる
  • 上杉氏との長谷堂合戦で活躍する

誕生・死没

  • 死没:1646年?
  • 誕生:1563年?
  • 享年:83歳?

名 前

  • 乞食大名(あだ名)

所 属

官職・役職

  • 官位: 越前守

親 族

  • 実父 : 佐々木貞綱

略 歴

1563年… 出羽国の豪族・佐々木貞綱の子として誕生
1581年…最上義光の攻撃を受けて降伏。以後、最上氏の重臣となる
1595年…湯沢城攻略に貢献する
1600年…慶長出羽合戦で副将格として長谷堂城に派遣され上杉本陣に迫るなどの奮戦ぶりを見せた。
1617年…最上家の家督争い(最上騒動勃発)。
1622年…最上家が改易され、土井家に仕える。
知行を家臣に全て分け与え、家臣のもとで暮す。
1633年…土井家転封に伴って古河に移る。
1646年…当地にて死去。遺徳を偲んだ家臣達によって鮭延寺(茨城県古河市)が建立され、弔われた。

概 要

佐々木貞綱の子。出羽鮭延城城主。1581年、最上義光の攻撃を受けて降伏し、以後最上義光に属して所領を安堵されている。
1622年義光の死後に起こった最上氏の内紛によって改易されたため、下総佐倉藩主・土井利勝に属した。

出 自

鮭延氏は、宇多天皇の子・敦実親王を祖とする近江源氏佐々木氏の一族。
二十代綱村のとき出羽に下り、横手城主小野寺氏に仕えた。

その後、佐々木氏は最上地方に下り、1563年に父・貞綱の時に庄内の大宝寺氏(武藤氏)の侵攻に敗れ、鮭川のほとりの真室内町に退き、居城の地名である鮭延を名字とした。
なお、このころ幼少だった秀綱は一時大宝寺氏に捕らわれ庄内に連れ去られ小姓として仕えている。

最上家への降伏

小野寺家臣として鮭延城主となった秀綱でしたが、1581年に最上義光の攻撃を受けることになります。
最初は必死に抵抗した秀綱でしたが、最上氏の氏家守棟の調略により内部の切り崩しを受けたため降伏します。

その後、義光から所領を安堵され最上氏の重臣として活躍します。

慶長出羽合戦での活躍

1600年、関が原の合戦に付随して起きた慶長出羽合戦(上杉VS最上・伊達)では、直江兼続率いる上杉軍が、最上氏の長谷堂城を包囲すると秀綱は副将格として長谷堂城に派遣され、城主の志村光安を助け、楯岡光直や清水義親らと共にこれを救援したと言われています。
秀綱は部隊を率いて上杉本陣に迫るなどの奮戦ぶりを見せ、『永慶軍記』には、直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたとある。
戦後に最上氏が出羽山形57万石に封じられると、秀綱には真室城11,500石が与えられた。

最上騒動

義光の死後、義光次男の家親が家督を継いだ最上氏でしたが1617年に家親は江戸で急死してしまいます(毒殺?)
最上氏は年少の最上義俊が家督を継ぐことになるますが秀綱はこれに反対し、秀綱は義光の四男・山野辺義忠を擁立することになり、家臣団は分裂して対立します。
このお家騒動(最上騒動)が理由で1622年、最上氏は近江国大森1万石に転封。事実上、改易されます。

乞食大名

最上家の改易後、秀綱は佐倉藩主・土井利勝に仕えることになり、知行5千石を与えられます。
秀綱はこの知行5千石を出羽国からくっついてきた家臣に分け与え、秀綱自身は家臣の家で養ってもらったといいます。

そして、1633年に土井家転封に伴って古河に移り、正保3年(1646年)、当地にて死去。遺徳を偲んだ家臣達によって鮭延寺(茨城県古河市)が建立され、弔われた。 この事は「乞食大名」として 現世でも語り告がれています。

そしあて1633年4月の土井家転封に伴って古河に移り、1646年、当地にて死去。遺徳を偲んだ家臣達によって鮭延寺(茨城県古河市)が建立され、弔われました。

逸 話

太閤検地に反対し土一揆に加勢した池田盛周とその家来達が、鮭延秀綱のもとに助けを求め逃れると、お尋ね者となった盛周らを秀綱は匿ったという。

参考資料(引用元)

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