国の史跡に指定されている安東家の居城
檜山城

檜山城 本丸跡地
1.城データ
築城年
- 着工:1456年
- 完成:1495年
築城者
- 安東政季
別名
- 留ヶ崎城
天守構造
- なし
城郭構造
- 山城
遺構
- 曲輪、土塁、空堀
主な城主
- 安東氏
- 佐竹氏
- 多賀谷氏
廃城年
- 1620年
2.年 表
1456年… | 葛西秀清を倒した、安東政季・安東忠季父子が築城を開始する。 |
1495年… | 築城が完成する。以後、尋季、舜季、愛季、実季まで5代にわたり檜山安東氏の居城となった。 |
1589年… | 安東氏の内紛(湊合戦)により、実季が篭城する |
1598年… | 安東実季は拠点を槍山城から湊城に移す |
1602年… | 安東氏が国替えにより、常陸に移動になる、代わりに佐竹氏が檜山城に入る |
1610年… | 多賀谷宣家(佐竹義重の四男)が城代となり、檜山城に入城し大規模な城の改築を行う。 |
1620年… | 江戸幕府の一国一城令により、1620年(元和6年)廃城となる。 |
3.概 要
蝦夷地から秦家の協力を得て男鹿野半島に移り住んで来た。槍山安東家が米代河口域に根付いていた、葛西氏を討ち檜山に本拠を構えた、築城したのが始まりとされている。
江戸時代後期に佐竹領内を歩いた紀行家
愛季が脇本城に入ってからは、愛季の次男・
4.立 地
能代市南東部、槍山川南の標高147mの霧山にあり東西1.5km、南北約1.0kmの大きさのある広大な山城である。本丸は南山頂部に存在しており、天守閣や石垣はありませんが、周囲には堀切や段築が多数造られており、天然の要害とした山城になっています。また、城の北側にも多数の曲輪が存在している。城の西側には羽州街道が並走しているので、交通の要でもある。
残念ながら現在は「城跡」しかありませんが、周辺には安東家や佐竹家に関連する遺跡や神社仏閣、民俗芸能などの文化が豊富に残っています。また1971年から6回に渡る発掘調査の結果として、中世の館跡や古代の集落跡が発見されています。