【石田堤公園】

場所:埼玉県鴻巣市袋地内

石田堤碑
ポイント
  • 当時の状況を解説してくれるモニュメントがある
  • 映画「のぼうの城」の舞台としても登場
  • 当時の面影が残る堤跡が見れる
  • 史跡公園と駐車場が離れている
  • 1時間以内で堪能できる

  地 図

石田堤とは?

豊臣秀吉による関東平定の一環として小田原方の成田氏長居城である武蔵国・忍城を石田三成らが攻めたとき(忍城の戦い)三成が構築に、水攻めのために忍城の周囲を総延長28 km(現・埼玉県行田市・鴻巣市内)に渡って築いた堤

なぜ「水攻め」なのか?

忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000が忍城に立て籠った。
攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかった。そのため、三成は忍城を望むことができる丸墓山(現・丸墓山古墳)の頂きに本陣を構え、水攻めを発案し、そこを起点に忍城周囲に総延長28 km、比高1.8-3.6 m、基底(幅)約11 mにも及ぶ堤をわすが1週間程で作り挙げたと言われている。
しかし、実際には秀吉の強い意向で水攻めは行われたと推測されます。

秀吉の手紙

秀吉から三成に充てた書状で、三成から送られた堤の絵図面の内容を承諾するとともに、水攻めを油断なく行うことを申し付けている。
また、途中から忍城攻めに加わった浅野長吉が7月1日に血尾口に攻め込み、忍城方の兵30余を討ち取り、それを秀吉に報告した際にも秀吉は「それよりも水攻めをしっかりやるように」と指示しています。
さらに、7月6日に上杉景勝、前田利長らに、早々に忍城に向かい堤を丈夫にするよう申しつけています。また、14、15日頃に岩付に向かうので、その際に忍城を包囲している堤を見学するから、普請を油断なく行うようにとも命じています。
このように秀吉は忍城を水攻めすることに固執し、巨大な堤を築くことで自らの権力を誇示したいと考えていたのかも知れません。

堤の構造

堤といっても実際は、自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われ、現存している堤も自然堤防に 1~2m程度盛土したものである。

いざ水の引き入れ!その結果は?

堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが地形的に城や城下町に水が溜まらず「下忍」、「堤根」方面に水が溜まってしまい、遂には現在の堀切橋付近(袋 - 堤根間)で堤が決壊して水攻めは失敗に終わります。しかし北条氏の降伏により忍城は開城することになります。

石田堤の並木道

江戸時代、徳川家康によって五街道の整備が始められ、その他の支路も脇循環として整備が始められ堤根の石田堤沿いの館林道も中山道と日光街道を結ぶ日光脇循環として整備が始められ堤の上には黒松が植えられ、松並期が形成されました。
明治時代以降も松並木は残され、昭和40年第には補植されて、新たに桜も植えられました。残念ながら害虫の被害もあって黒松は除々に枯れ、現在では江戸時代から残る松は1本も無くなってしましましたが、補植された松が育ち、並木は今も面影を留めています。

現在の石田堤

現在は行田市堤根地区内の282 mと堀切橋を挟んだ、鴻巣市袋地区内の約300 mが残存している。
また、埼玉県指定史跡および鴻巣市指定史跡となっており、旧・吹上町(現・鴻巣市)が町内に残る一部を保存して「石田堤史跡公園」として整備している。
また、2015年4月1日には行田市堤根地区に駐車場を完備した「石田堤歴史の広場」がオープンした。

石田堤史跡公園

「石田堤史跡公園」内のシンボルモニュメントの中では、堤の構築の様子や当時の状況を音声で説明する仕掛けがあり、石田三成の陣中の様子が良く分かる仕掛けになっています、また実際の堤の断面をみたり、当時の逸話などの説明版などがあり歴史好きにはたまりません。

ギャラリー

参考資料(引用元)