人口は?石高は?
埼玉県の主な城下町を徹底解説
川 越
| 旧国名 | 武蔵 |
| 所在地 | 川越市 |
| 石高 | 17万石 |
| 人口 | 6,200人 |
| 標高 | 21m |
江戸の北西部にあたる城下町。平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、武蔵国筆頭の御家人として鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に上杉氏の家宰・太田道灌によって河越城が築城され江戸時代以前は江戸を上回る都市であり、「江戸の母」と称された。
江戸時代には江戸の北方防衛の要であり酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣や御家門の越前松平家が配された。そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町として栄え、「小江戸」の別名を持つ。
行 田(忍)
| 旧国名 | 武蔵 |
| 所在地 | 行田市 |
| 石高 | 10万石 |
| 人口 | 10,700人 |
| 標高 | 21m |
埼玉県の北部に位置し、室町時代には忍城(おしじょう)が築かれ、成田氏を中心とする武士団の本拠地として周辺に勢力を拡大していた。
江戸時代には忍藩領となり、阿部氏、後に松平氏の城下町となり下級武士の内職として足袋の生産が始まり、後に一大山地となった。
岩 槻
| 旧国名 | 武蔵 |
| 所在地 | さいたま市 |
| 石高 | 11.5万石 |
| 人口 | 6000人 |
| 標高 | 14m |
岩槻城は1457年に扇谷上杉氏に仕えていた太田道真・道灌父子が敵対関係にあった古河公方・足利成氏に備えて築城したのが始まりされている。(異説あり)
奥大道、奥州街道が通る交通の要所で、江戸時代には大岡家岩槻藩2万2千石の城下町として、また日光御成街道の宿場町として栄えた。