人口は?石高は?
茨城県の主な城下町を徹底解説
水 戸
| 旧国名 | 常陸 |
| 所在地 | 水戸市 |
| 石高 | 35万石 |
| 人口 | 8,300人 |
| 標高 | 29m |
1591年に佐竹氏が太田城(常陸太田市)から移転し発展したのが水戸の城下町。
佐竹氏が秋田に転封となると)徳川家康の第11子徳川頼房が水戸城主となり、徳川御三家の一つ水戸藩が創設され水戸黄門(徳川光圀)を輩出した他、偕楽園が知られている。
「水戸」の地名は、那珂川の舟運の河港として盛え、水運の戸口とされていた事に由来する。
土 浦
| 旧国名 | 陸奥(岩代) |
| 所在地 | 福島市 |
| 石高 | 15万石 |
| 人口 | 87000人 |
| 標高 | 250m |
室町時代(1429年-1441年)の間に小田氏に属する若泉氏によって土浦城が築かれた。その後、小田氏配下の菅谷氏が城主となり、佐竹氏によって小田城を追われた小田氏治を迎え入れている。土浦城は小田氏の居城となり、小田原征伐まで小田氏が一帯を治めた。
関ケ原合戦後の1601年に松平信一とその子・信吉の時代に城下町の縄張りの原型が築かれ、土浦城の東を水戸街道が通り街道沿いに宿場町が形成され、松平氏の後は西尾氏、朽木氏を経て以降土屋氏が治めた。
笠 間
| 旧国名 | 常陸 |
| 所在地 | 笠間市 |
| 石高 | 8万石 |
| 人口 | 5000人 |
| 標高 | 205m |
茨城県中部の県央地域に位置する城下町。
鎌倉時代に笠間地域では正福寺と徳蔵寺が勢力争いを行っており、この紛争に乗じて宇都宮頼綱は甥の塩谷時朝を大将とする討伐軍を派遣し、この地を与えられた時朝は笠間を苗字とした。
笠間氏による支配が続いたが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に18代笠間綱家が主家の宇都宮家に反逆の様子をみせたため宇都宮国綱に滅ぼされた。その後、1594年に宇都宮氏の家臣・玉生忠勝によって笠間城が築城された城下町も構成された。
古 河
| 旧国名 | 常陸 |
| 所在地 | 土浦市 |
| 石高 | 9.5万石 |
| 人口 | 8,300人 |
| 標高 | 3m |
渡良瀬川の東側に位置する城下町。戦国期には古河公方の本距離となり交通・軍事上の重要拠点となった。
江戸時代になると利根川水運と日光・奥州街道の分岐点となる交通の要所として発展、小笠原氏によって城下町の基礎が築かれた。
徳川将軍家による日光社参では、古河城に将軍が宿泊することが多かった。
結 城
| 旧国名 | 下総 |
| 所在地 | 結城市 |
| 石高 | 10万石 |
| 人口 | 3400人 |
| 標高 | 24m |
結城台地に位置する城下町。小山氏から分かれた結城朝光が館を構え、鎌倉以来の名家結城氏(関八家)の城下町となる。1590年、結城秀康の入封で近世城下町として整備された。
1700年、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで結城藩水野氏10代がこの地を治めた。
下 妻
| 旧国名 | 常陸 |
| 所在地 | 下妻市 |
| 石高 | 10万石 |
| 人口 | 3400人 |
| 標高 | 24m |
室町時代から戦国時代にかけて、多賀谷氏が下妻城を築き、城下町として発展。江戸時代は下妻藩が置かれた。
下 館
| 旧国名 | 常陸 |
| 所在地 | 筑西市 |
| 石高 | 5万石 |
| 人口 | 4300人 |
| 標高 | 42m |
下野との国境に近い常陸国西部の低平地に立地し、城郭は小貝川の支流に面した台地にある。
下野押領使の藤原秀郷(俵藤太)が平将門の乱平定のため、上館・中館・下館の三館を築いたことが、その始まりといわれている
室町時代の1478年頃に、下総・結城氏の家臣、水谷伊勢守勝氏によって下館城が築城される。その後水谷氏が結城家から独立、江戸時代には下館藩の城下町となり、水谷氏に代わって入封した松平頼重(徳川光圀の兄)により水戸城下にならった町割りが行われた。
松 岡
| 旧国名 | 常陸 |
| 所在地 | 高萩 |
| 石高 | 4万石 |
| 人口 | 1100人 |
| 標高 | 57m |
1602年に角館から転封した戸沢政盛が松岡藩を立藩し、竜子山城の麓に城郭と城下を整備し発展。