人口は?石高は?
福島県の主な城下町を徹底解説
会津若松
| 旧国名 | 陸奥(岩代) |
| 所在地 | 会津若松市 |
| 石高 | 92万石 |
| 人口 | 22,500人 |
| 標高 | 238m |
会津盆地の南東部にある穏やかな台地の先端を利用した城下町。
1384年に、会津地方を収めた蘆名直盛が現在の会津城の元となった黒川城(若松城)を築城すると、以降、城下町「黒川」は、戦国大名・蘆名氏の領国支配の拠点として、また当時奥州最大の都市として発展を遂げていった。
伊達氏が蘆名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地とした。その、翌年1590年には豊臣秀吉の奥州仕置により黒川は伊達氏から取り上げられ、代わって蒲生氏郷が入封した。
氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。
氏郷は旧領の日野、松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市・楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築き、1643年に徳川秀忠の子保科正之が入封して会津松平家の祖となり、以後若松は会津藩の城下町として栄えた。
福 島
| 旧国名 | 陸奥(岩代) |
| 所在地 | 福島市 |
| 石高 | 15万石 |
| 人口 | 87000人 |
| 標高 | 250m |
中通りの二本松城下の北に位置し。阿武隈川と荒川が合流する北側にある。
1592年に蒲生氏の家臣・木村吉晴が杉本城の改修が始め、「杉本」よりも縁起の良さそうな福島と改名した。一時破却されるが1664年までは米沢城の支城として存続した。
福島藩時代には幕府直轄領、本多家、堀田家と藩主が変わり、江戸中期になると徳川将軍家との関係が深い重昌流板倉家が治めることになる。現在の福島県内で福島藩は会津藩に次ぐ石高を有した。
二本松
| 旧国名 | 陸奥(岩代) |
| 所在地 | 二本松市 |
| 石高 | 10,7万石 |
| 人口 | 7,300人 |
| 標高 | 334m |
中通りの北部、東側に阿武隈川が北流する位置に存在する。
地名の由来は旅人の目印となった二本の松があったことからとされ、元は畠山氏が収めていたが、1590年に伊達政宗によって滅ぼされ、奥州仕置き後に蒲生氏や上杉家が収めた。
白 河
| 旧国名 | 陸奥(磐城) |
| 所在地 | 白河市 |
| 石高 | 15万石 |
| 人口 | 8000人 |
| 標高 | 375m |
会津街道を始め奥羽最南端の玄関口・交通の要所として栄えた。
戦国時代前は結城氏の所領となっていたが、戦国時代には両結城家による抗争が起こり、さらには佐竹氏の攻撃を受けるなどがあった。 江戸時代最初期、丹羽氏によって城下町が整備され、それ以降は、譜代中藩(一時期親藩)で老中を輩出した名門白河藩の城下町として栄えた。奥州街道起点の地でもあった。
棚 倉
| 旧国名 | 陸奥(磐城) |
| 所在地 | 棚倉町 |
| 石高 | 10万石 |
| 人口 | 2500人 |
| 標高 | 264m |
八溝山を町の西南の端とし、久慈川の上流部とその支流が流れ、阿武隈川系の社川と久慈川により作られた台地に1624年に丹波長重が棚倉城を築城し同時に城下町を整備し発展した。
三 春
| 旧国名 | 陸奥(磐城) |
| 所在地 | 三春町 |
| 石高 | 5,5万石 |
| 人口 | 5600人 |
| 標高 | 408m |
福島県中通り福島県のほぼ中央、阿武隈産地の西裾に位置する。
1504年に田村氏が入城し本拠を置いたが、豊臣秀吉の奥州平定時に改易され、蒲生氏郷の所領となった。
泉
| 旧国名 | 陸奥(磐城) |
| 所在地 | いわき市 |
| 石高 | 2万石 |
| 人口 | 600人 |
| 標高 | 26m |
福島県浜通り(陸奥国・石城国・磐城国)の南端に位置し、江戸時代に磐城平藩の支藩である泉藩主・内藤政親が居館と城下町の建設を行い発展した。
相馬
| 旧国名 | 陸奥(磐城) |
| 所在地 | 相馬市 |
| 石高 | 6万石 |
| 人口 | 2000人 |
| 標高 | 23m |
浜通り北部太平洋沿岸の位置し北東流する宇多川の北岸に形成された城下町
鎌倉時代以来は平将門の末裔である戦国大名・相馬氏の本拠地で、古代より馬の産地として発展した。
磐城平
| 旧国名 | 陸奥(磐城) |
| 所在地 | いわき市 |
| 石高 | 12万石 |
| 人口 | 5500人 |
| 標高 | 39m |
浜通りに位置する戦国大名・岩城氏の本拠地。
岩城氏の本拠地が白土城から西北西4kmに位置する大館に移り。
1602年に岩城氏が改易され、代わって鳥居忠政が磐城平藩を樹立すると、名前が「磐城」から「磐城平」に変更され、藩政時代には徳川譜代大名が治める城下町となった。