奥州仕置により改易となった白河の大名
白河結城

左三つ巴
年 表
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1440年 | 6代当主・結城直朝の嫡男として結城政朝が誕生 |
1458年 | 足利成氏に追放された宇都宮等綱を保護する |
1466年 | 結城政朝が家督を継ぐ |
1470年 | 相馬家と同盟を結ぶ |
1474年 | 岩城氏と同盟 |
1484年 | 石川氏の一族を取り込む |
1489年 | 伊達氏・蘆名氏・小山氏・下総結城氏と連合して佐竹氏と争う |
1500年 | 結城顕頼の嫡男として義綱が誕生 |
1509年 | 永正の乱が勃発し足利政氏方に味方する |
1510年 | 顕頼が父・政朝を追放し家督を継ぐ |
1520年 | 下野国に侵略して那須資房・政資父子と争う |
1521年 | 那須氏の山田城を攻め落とす |
1532年 | 岩城重隆の娘と嫡男・晴綱との婚姻をめぐって伊達氏と対立 |
1541年 | 陸奥国南端の南郷地域の東館城が佐竹氏によって落城 |
1542年 | 義綱が出家し家督を晴綱が継ぐ |
1555年 | 蘆名家と同盟 |
1560年 | 那須氏との争いが勃発 |
1564年 | 佐竹氏によって羽黒山城が落城 |
1567年 | 晴綱の嫡男として義顕誕生 |
1573年 | 晴綱が病死し家督を義顕が継ぐ |
1574年 | 佐竹氏によって本城・白河本城が落城 |
1582年 | 蘆名盛隆の斡旋で義顕が白河領に帰参 |
1590年 | 豊臣秀吉の奥州仕置により所領を没収される |
家 紋

三つ巴
出 自
鎌倉時代に結城氏の祖・小山朝光が白河庄に、朝光の孫・結城祐広が移り住んだのが白河結城氏の始まりとされる。
後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵すると、結城宗広が新田義貞の鎌倉攻めに参加し、後に後醍醐天皇より宗家に代わって結城氏の惣領と認められた。
建武の新政においては宗広の子・親光が三木一草と称される有力武士の一人となり、親光の兄・親朝は奥州府の式評定衆として陸奥守である北畠親房・顕家父子を補佐した。
南北朝時代
足利尊氏が建武政権から離反して南北朝時代に突入すると、白河結城家は南朝方に属した。
当時の当主・親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みるが失敗して殺され、宗広は北畠父子に従い、親朝は白河に戻って勢力を拡大して伊達氏をも凌ぐ奥州随一の勢力にまで成長させ、常陸国に渡り関東地方における南朝勢力を確保しようとした北畠親房の救援要請に応じた。
しかし、北朝方についた周辺諸氏の侵攻や親房との意見対立などによって1343年に足利方に転じた。
宗広・親朝の没後、親朝の長男・顕朝と次男・小峰朝常の間で所領が分割され、惣領家は顕朝が継ぎ、朝常には小峰城が与えられて小峰氏(こみねし)を称した。両氏の所領分割は互いの所領を混在させる形で行われたが両氏はおおむね協調関係にあり、白河結城氏惣領家に後継者がいない場合には小峰氏から養子を迎えていた。
戦国時代突入
室町時代には室町幕府と鎌倉府の対立の中を巧みに生き残り、分家である小峰氏から入った結城直朝と子・政朝の時代に全盛期を迎える。
しかし、戦国時代に入ると、惣領家と小峰氏の対立など内紛が絶えず発生したり、周辺国である佐竹氏や那須氏の侵攻を受けたため、衰退していった。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため奥州仕置により改易となった大名家としての白河結城家は滅亡した。
子孫に秋田白川氏(嫡流)、仙台白河氏(小峰氏が復姓)、甲斐結城氏などがいる。
主な本拠地
- 白川城【福島】
武 将 (名前クリックで詳細)
白岡政朝 |
白河結城家7代当主。直朝の嫡男。相馬家や岩城家と同盟し父と共に白河結城氏の最盛期を築き上げ、南奥州や北関東に権威を振るった。 |
白岡顕頼 |
白河結城家8代。結城政朝の子。父と五郎(異母子)を追放し家督を継ぐと生涯をかけて那須家と争った。白河結城家の祖・宗広が開基した長雲山智徳院を再興した。 |
河東田清重 |
白河結城家家臣。武勇に優れたほか、伊達家との交渉や佐竹家との戦いで活躍した。また善政を行い民から慕われた。主家滅亡後は伊達家に仕えた。 |
保土原行藤 |
二階堂家庶流。保土原館主。伊達政宗が主家を攻めた際に内応し、以後は伊達家に仕える。和歌や茶道に精通していたため、政宗に敬われて伊達家の一家に扱われた。 |