扇谷上杉家に仕えた相模の名家、後に早雲により滅ぼされる
相模三浦

三浦三つ引
目 次
年 表
1063年 | 前九年の合戦で源頼義に従った村岡為通が、三浦郡を領し衣笠城を築く。この時、三浦を称す |
1247年 | 執権北条氏に御家人三浦氏一族は滅ぼされる。(宝治合戦) |
1336年 | 多々良浜の戦いで戦功を上げる |
1338年 | 相模国守護に任じられる |
1416年 | 鎌倉公方・足利持氏により相模守護職を剥奪 |
1438年 | 永享の乱が勃発 |
1451年 | 上杉(三浦)高救の子・三浦義同(道寸)が誕生 |
1462年 | 三浦時高が上杉持朝と堀越公方の確執の責任を取って隠居。 |
1494年 | 三浦義同が家督を継ぐ |
1504年 | 立河原の戦い(扇谷上杉VS山内上杉) |
1513年 | 北条早雲が大軍で三浦領へ侵攻 |
1416年 | 北条家によって三浦氏滅亡 |
家 紋

三浦三つ引
★ 引両とは…
平安時代から見られるようになった家紋。何であるかについては本陣での陣幕を文様化したものなど説が多く、わかっていない。また、室町幕府を開いた足利氏が使用しており、「足利二つ引」は将軍家の権威の象徴ともなった。
出 自
★ 平姓直系の氏族
平安時代中期の武将、「平良文」の孫である「平忠通」を三浦氏の先祖とし、その子・「為通」が源頼義から相模国三浦郷を与えられ「三浦」姓を名乗った。
その後、為通は三浦半島中央部に位置する衣笠山に衣笠城を構え勢力を拡大していった。

衣笠城址
三浦氏宗家の滅亡
★ 鎌倉時代、北条氏による滅亡
1247年、鎌倉幕府中期。三浦氏は鎌倉幕府内で北条氏を凌ぐほどの御家人を務めていた。
そんな中、3代執権・北条泰時が死去し、その嫡孫で19歳の北条経時が跡を継いだ。北条家主導の政治に不満を募らせていた御家人達は、将軍・藤原頼経を擁立し、北条執権体制への反対勢力を形成していた。
幕府内では、北条執権派と将軍派に分裂して対立を続けた。三浦氏も将軍を擁立し両者は鎌倉で激突、その結果、三浦氏一族はは北条氏と外戚安達氏らによって滅ぼされた。
三浦氏が滅ぼされた事により、将軍側近勢力は一掃され、合議制の上の執権政治は終わりを告げ、北条家による専制執権体制が確立した。
三浦氏再興
★ 庶流である佐原氏出身の三浦盛時が再興
宝治合戦で、執権・北条氏によって三浦氏一族を滅ぼされた。
しかし、その後、宝治合戦で北条氏側について戦った、三浦氏庶流である佐原氏(三浦氏一族は族滅したが盛連一族のみが生き残った)が三浦氏を再興し、執権北条氏の御内人として活動した。また、盛時の兄弟たちの子孫は会津の豪族「蘆名氏」として活躍している。
鎌倉幕府滅亡
★ 足利方について鎌倉幕府を滅ぼす
元弘年間、足利尊氏が鎌倉幕府に対し兵を挙げる(元弘の乱)と、三浦氏当主・三浦時継は足利方について北条氏と戦う。そして、鎌倉幕府が滅び、建武政権が成立した後は、時継は相模国・武蔵国などの地頭となった。
室町時代初期
★ 相模守護を務める
中央政権で起こった南北朝の分裂以降は関東においても地域を二分する争いが頻発し、三浦高継・高通父子は、北朝方について活動し、その戦功によって相模国守護に任じられた。
しかし、観応の擾乱(足利尊氏VS足利直義(尊氏の弟))や新田氏らと結んで鎌倉府を脅かした(武蔵野合戦(南朝VS北朝))でことごとく尊氏に敗れたため。尊氏は三浦高通から相模守護職を剥奪したうえで追放した。これにより三浦氏は一旦没落した。
しかし、鎌倉公方・足利基氏によって直義方の重鎮であった上杉憲顕が赦免されると、高通も赦されて再び相模国の守護に任じられた。1377~1402年までの25年間にわたり相模守護を務めてた。
戦国時代初期
★ 鎌倉府を滅ぼし扇谷上杉氏の勢力下に入る
1416年、「上杉禅秀の乱」が勃発すると三浦高明は上杉禅秀に加担した。そのため乱後、敗れた高明は鎌倉公方・足利持氏により相模守護職を奪われた。三浦氏一族はこれを深く恨み、1438年に「永享の乱」が勃発すると、高明の子時高(義高)は持氏を裏切って鎌倉府を攻め滅ぼし、新しく守護となった扇谷上杉氏の勢力下に入った。
その後も、時高は扇谷上杉家の重臣として活躍し、三浦郡・鎌倉郡などを支配し相模国内に大きく勢力を拡げた。
家督争い
★ 扇谷上杉持朝の子供が養子に入り家督争いが勃発
三浦時高は嗣子に恵まれず、主君である扇谷上杉持朝の次男・高救を養子として迎えた。
しかし、その後、時高に実子(高教)が誕生すると高救と対立、高明は高救を追放した。
高救とその子、義同(後の三浦道寸)は大森氏の支援を受けた、時高・高教父子を攻め居城・新井城と三浦氏の家督を奪った。(異説として時高が高教に家督を継がせて病死した後、高教が若年の当主であったことに追放されていた義同らが付け込み、三浦氏の家督を奪ったとも)。
三浦氏滅亡
★ 伊豆から日の出の勢いにのった北条早雲によって滅ぼされる
三浦氏の当主となった道寸は関係が悪化していた扇谷上杉朝良と和睦し、伊豆から日の出の勢いにあった北条早雲に対抗した。
早雲が扇谷上杉家の重臣・大森氏から小田原城を略奪すると、道寸は大森氏を保護して早雲と戦うが、北条家と扇谷上杉家の間に和解が成立すると、三浦氏も北条家と和睦する。
しかし、1504年以降、北条家と扇谷上杉家は再び対立を起こし、朝良の傘下にあった道寸も必然的に早雲と争うようになった。
1513年、早雲は三浦氏を討つべく大軍を向かわせ攻撃を仕掛けた。これに対して三浦軍は防戦するも次々に城を陥落させられ、また、主君・扇谷上杉家の援軍も北条軍に遮られた。
北条軍に追い詰められた道寸は居城・新井城に篭城。しかし、三年間の長期にわたる籠城戦の末に義同は自刃、子の三浦義意は戦死した。これによって相模三浦氏は滅亡した。
その後の三浦一族
★ 百姓の身分に落ちるが幕末には幕臣にまで出世する
北条水軍として北条家に仕えた三浦浄心の子孫は北条氏滅亡後、武士から百姓の身分とされたが、江戸で旗本衆と交友・縁戚関係を持ちながら150年浪人を続け、1745年に三浦義周が徳川重好の外祖父となり、幕臣に取り立てられた。
また、安房里見氏重臣・正木通綱を時高あるいは義同の遺児とする説があるが、近年では別の三浦氏庶流の出身であるとも言われている。
武 将 (名前クリックで詳細)
三浦時高 |
相模三浦氏当主。鎌倉公方へ謀反を起こし、扇谷上杉家の下で相模守護を務めた。その後、養子に入った義同(三浦道寸)と家督争いに破れ自害した。 |
三浦高救 |
扇谷上杉家当主・上杉持朝の次男。相模国守護・三浦時高の養子となる。、時高が上杉持朝と堀越公方の確執の責任を取って隠居したために家督を継ぐ。後に時高と対立し追放される。三浦義同(道寸)の父 |
三浦義同(道寸) |
三浦高救の子。三浦時高の養子。養父・時高と対立し三浦氏を追放されると大森氏の支援を受け時高を討って家督を継ぐ。北条の大軍に攻められると新井城にて3年間に渡って篭城するが敗北し、自害した。 |
三浦義同(道寸) |
三浦高救の子。三浦時高の養子。養父・時高と対立し三浦氏を追放されると大森氏の支援を受け時高を討って家督を継ぐ。北条の大軍に攻められると新井城にて3年間に渡って篭城するが敗北し、自害した。 |