上杉諸家のひとつで河越に本拠をもった戦国大名

扇谷上杉おうぎたにうえすぎ

竹に雀紋

竹に雀紋

家系図

年 表

 1439年

永享の乱では関東管領・上杉憲実に従う

 1440年

結城合戦で幕府の副将を務める

 1449年

鎌倉府が再興される
持朝が出家し嫡男・顕房に家督を譲る

 1451年

上杉顕房の子として政真が誕生

 1454年

享徳の乱が勃発(関東管領・上杉憲忠が死没)
関東管領に憲忠の弟・房顕を擁立する

 1455年

分倍河原の戦いで顕房が敗死する
持朝が再び当主となる

 1457年

太田道真・道灌父子に命じて河越城・江戸城、そして岩槻城の三城を築城させる
本拠を河越に移す

 1462年

堀越公方と対立する(堀越公方を支援する8代将軍・足利義政からの詰問を受け勢力が低下する)

 1467年

持朝が死去し家督を政真が継ぐ

 1471年

古河公方が伊豆へ侵攻するがこれを撃退するし古河城を落とす

 1472年

古河成氏に古河城を奪取される

 1473年

五十子の戦いで上杉政真が戦死する
家督を政真の叔父・定正が継ぐ
上杉朝良が誕生する

 1476年

山内家の有力家臣・長尾景春が反乱を起こす(家臣の太田道灌が活躍する)

 1482年

古河公方と和睦が成立(扇谷上杉家はこの和睦に不満をもち山内上杉家との関係が悪化する)

 1486年

太田道灌を相模糟屋館に招いて暗殺
太田氏の居城江戸城を支配化に治める

 1488年

山内上杉顕定が挙兵し長享の乱が勃発する

 1493年

北条早雲と手を結ぶ

 1494年

山内上杉家との戦いで定正が死去し甥で養子の朝良が家督を継ぐ

 1504年

武蔵立河原の戦いで山内上杉顕定に大勝するが山内上杉顕定の反撃にあい降伏する

 1505年

朝良が強引に隠居させられ家督を上杉朝興が継ぐ

 1510年

北条家と対立する

 1518年

重臣の三浦郡の三浦道寸が北条家に攻め滅ぼされる

 1524年

重臣・太田資高が北条家に寝返り江戸城を攻撃される

 1525年

北条家に岩付城を攻め落とされる


上杉朝定が誕生する

 1526年

北条家から蕨城を奪還する

 1530年

小沢原の戦いで北条氏康に敗れる
岩付城を奪還する

 1533年

武田家と同盟を結び北条家を攻撃する

 1537年

上杉朝興が死去し、嫡男の上杉朝定が継ぐ
北条家に河越城を攻められ松山城に逃げる

 1541年

山内上杉家と和睦し北条家に対抗する

 1545年

今川家と連携し対北条包囲網を作る

 1546年

>連合軍を結成し河越城を包囲するが氏康の奇襲に遭い大敗し朝定が戦死する(河越夜戦)
扇谷上杉家が滅亡する

家 紋

竹に雀紋

竹に雀紋

出 自

扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を祖とする家で、南北朝期の貞治年間に重顕の養孫にあたる上杉顕定が関東に下向し、重顕の弟・上杉憲房の諸子から出た諸上杉家と同じく鎌倉公方(関東公方)に仕えて鎌倉の扇谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)に居住したことから扇谷家の家名が起こった。

享徳の乱

関東管領・上杉憲忠が暗殺され「享徳の乱」が勃発すると扇谷上杉(当主・上杉持朝)は憲忠の弟・房顕を新たな関東管領に擁して、山内上杉家に従った。
古河公方となった成氏と敵対関係となったため、成氏に対抗するために1457年には家宰の太田道真・道灌父子に命じて河越城・江戸城、そして岩槻城の三城を築城させ、居城を河越城とし、武蔵の分国化を進めた。
さらに室町幕府より送り込まれた堀越公方(足利政知)と対立関係になった。
1477年に山内家家臣・長尾景春が主君上杉顕定に反乱を起こしすと扇谷上杉家家臣・太田道灌の活躍により乱は平定され 河公方・成氏と上杉顕定の間に和睦が成立すした。

長享の乱

「享徳の乱」の活躍により家中で絶対的な影響力をもった太田道灌にたいして上杉定正は、その力を恐れて暗殺を実行する。
これをきっかけに領地問題や享徳の乱での扱いで対立関係であった山内上杉家との戦が勃発(長享の乱)
堀越公方・政知を擁した山内家に対し扇谷家は古河公方・成氏に接近して、両家は対立する。
1493年には扇谷上杉定正の命で伊勢宗瑞(後の北条早雲)が堀越公方・政知を攻撃しているが、伊勢宗瑞(北条早雲)は伊豆において自立し子孫は後北条氏となる。
同盟関係にあった古河公方成氏は分裂により衰亡していたほか、山内方の相模の領地は伊勢宗瑞(北条早雲)に次第に切り取られて支配権を失い(大森藤頼の小田原城等。ただし藤頼は、山内上杉に寝返っていたため、扇谷上杉家が宗瑞に派兵を依頼したものを、宗瑞がそのまま領国化したものである)、上杉朝良(上杉定正の甥で次の扇谷家当主)は伊勢宗瑞(北条早雲)と宗瑞の甥で主君である駿河守護今川氏親の軍事支援で立河原の戦いは勝利する物の、自らは積極的な対応策を打たず河越城を包囲されて扇谷側の降伏の形で長享の乱は収束する。

北条家の侵攻

両上杉の争いの間に勢力を拡大した北条家は武蔵への侵攻を開始し、重臣の太田家らの離反があったため1524年に上杉朝興(上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から川越へ逃れる。
甲斐の武田信虎(信直)は両上杉氏と同盟して後北条氏と対決した。扇谷朝興は1533年に信虎嫡男の武田晴信(後の信玄)に娘を嫁がせて婚姻を結んでいたが、武田信虎は扇谷朝興死去の1538年に後北条氏と和睦して離反している。
扇谷朝興の子上杉朝定は山内家と和解して今川家ら関東の諸勢力と連合軍を結成し後北条氏との戦いに臨むが、1546年河越夜戦で戦死し、扇谷家は滅亡した。

扇谷家の名跡は一族の上杉憲勝が継ぎ、1561年山内家の家督と関東管領職を継承した越後の長尾景虎(上杉謙信)によって武蔵松山城主に据えられるが、1563年に後北条氏に降伏した。その後の動向は詳らかではない。

主な本拠地

  • 河越城【神奈川】

武 将 (名前クリックで詳細)

上杉持朝
(1416-1467)

扇谷上杉家当主。永享の乱で山内上杉家・上杉憲実に従い鎌倉公方・足利持氏討伐で功績を上げた。その後、享徳の乱が勃発すると憲忠の弟・房顕を立て古河公方・足利成氏と対立。太田道灌に河越城築城を命じ、自らの居城とした。

上杉顕房
(1435-1455)

扇谷上杉家当主。足利成氏が鎌倉公方に復帰した際に、父・持朝が隠居したため扇谷家の家督を継承する。その後、享徳の乱が勃発すると武蔵国分倍河原の戦いにおいて敗北し自害した。

上杉定正
(1443-1494)

扇谷家当主だった甥・上杉政真が世継ぎが戦死すると、扇谷上杉家当主となり、山内上杉家を助け、古河公方・足利成氏と戦う。その後、家臣の太田道灌の活躍により勢力を拡大し、南関東を支配する大名へと導いた。

藤田康邦
(1513-1555)

山内上杉家の重臣。山内上杉家の勢いが衰えると北条家に接近し北条氏邦を娘婿として藤田家を継がせる