北関東の小勢力だが宇都宮氏や佐竹氏とわたりあった

那 須な す

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家系図

年 表

 1463年

宇都宮、岩城家と交戦し敗北。
縄釣原の戦いで勝利を収め

 1494年

資実が死没し資房が下那須家の当主となる

 1509年

永正の乱の影響により「政資」とその嫡男「高資」が対立する

 1514年

上那須家内の内乱に乗じて資房が那須家を統一

 1520年

岩城、白河結城連合軍に攻められるがこれを撃退する

 1521年

岩城に攻め込まれたため、佐竹家の仲介のもと岩城家と和議を結ぶ

家督を政資にゆずり資房が隠居する

 1544年

政資が嫡男・高資に家督を譲る

 1546年

政資が死没

 1549年

「喜連川五月女坂の戦い」で宇都宮軍に大勝し、塩谷郡の一部を手中に収める

 1551年

高資が宇都宮氏の謀略にかかり、家臣の千本資俊に誘殺される

高資の異母弟の「資胤」が家督を継ぐ

 1555年

北条氏康・足利義氏と手を結ぶ

 1557年

資胤の子として「資晴」誕生する

 1560年

佐竹義昭を支援し結城・蘆名と争う

小田倉の戦いの敗戦がきっかけで家臣の大関氏・大田原氏らとの対立が表面化する

この頃から佐竹家との関係が悪化1567年まで戦いを繰り広げる

 1566年

大関高増を支援した佐竹家臣・佐竹義堅と下野神長で戦い大勝する

 1568年

資胤が隠居することを条件で大関氏・大田原氏と和睦をする

 1572年

資胤の娘と佐竹義宣の婚約を成立させ佐竹家と和睦する

 1578年

佐竹氏を中心に宇都宮氏・結城氏らと盟約を結び、後北条氏に対抗した。

小川台(佐竹VS北条)の戦いに参陣

 1583年

資胤が死去する

 1585年

塩谷侵攻のため薄葉原に進出し、宇都宮氏・塩谷氏の軍を破る

 1586年

資景が誕生する

 1590年

豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、改易になりかねたが、許され「資景」に5000石与える

 1600年

関ヶ原の戦いで東軍に属して加増を受けた

家 紋

一文字

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出 自

藤原道長の六男・藤原長家の孫・資家(貞信)を先祖としており、資家が陸奥国白河郡八溝山に潜伏していた「岩獄丸」という賊を討った功により、下野国那須郡を賜り同地に下向した。

元は「須藤」性を称していたが、那須資隆(平安時代・那須与一の父)の時、那須氏を称したとされる。
鎌倉幕府成立後は御家人となり、室町時代には最盛期を迎え、結城氏や佐竹氏と並んで、関東八屋形のひとつに数えられた。

概 要

戦国時代初期の那須家は上那須家と下那須家の二つに分裂して衰退していた。その後上那須家は室町幕府を、下那須家は鎌倉公方・古河公方を頼って勢力争いを繰り返すことになる。

1514年、上那須家が内紛により滅亡し、下那須家の那須資房が那須氏を統一するが、その後は宇都宮氏や佐竹氏との抗争に明け暮れる。
1590年、那須資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収されたが家臣・大田原晴清の陳謝で資晴の子・那須資景に5,000石を宛てがわれ、かろうじて改易は免れた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、江戸時代には下野那須藩1万4,000石の大名となる。

那須家の分裂(上那須家と下那須家)

1414年、12代当主・那須資之の時代「上杉禅秀の乱」が勃発すると兄・資之は上杉禅秀側、弟・資重は鎌倉公方・足利持氏側に属したため那須家は「上那須家」と「下那須家」の2家に分裂することになる。

那須家の統一

1514年、那須氏15代(上那須家)当主・那須資親の死後、資親の実子・山田資久と養子・那須資永の間で家督争いが生じと。下那須家の資房は資久を支持するが、内紛の最中に資久が資永に殺害されて上那須氏が断絶、資房は大田原資清らと共に資永を攻め自刃に追い込み、子・政資を上那須家の当主に据え、那須氏を事実上統一して実権を握った。

永世の乱

古河公方家の内紛・永正の乱の影響は那須氏にも及んだ高資を擁立する大関宗増らが当主・政資と敵対、宇都宮尚綱や常陸国の佐竹義篤・小田政治と結んだ父に対抗するため、母の実家である陸奥国南部の岩城氏や結城晴綱、下総国の結城政勝・下野小山高朝兄弟と手を結んだ。

その後の那須家

関東で北条家が勢力を伸ばすと当初こそ佐竹家らと手を結び北条家に対抗していたが、その後は後北条氏や伊達政宗などと手を結び佐竹家らに対抗した。

豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、改易となったが、重臣・大田原晴清の陳謝により、資晴の子・資景に5,000石の所領が与えられ、家名存続は許された。一説には奥州における一揆勢力と那須氏再興の動きが連携することを恐れたからだとも言われている。
その後、秀吉より罪を許され、資晴自身にも5,000石が与えられて、文禄の役においても名護屋城を守備している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは子・資景が東軍に属して加増を受けた。

主な本拠地

  • 烏山城【栃 木】

武 将 (名前クリックで詳細)

那須資房
( ? -1552)

下那須家当主・那須資実の子として誕生し。長く分裂していた那須家と統一した人物

那須政資
( ? -1546)

那須氏18代当主。2代古河公方・足利政氏より偏諱を受け政資と名乗る。

那須高資
(不明-1551)

那須氏20代当主。父・政資と対立しこれに勝利し家督を相続する。家臣の芳賀高定の謀略にかかり、最終的には家臣の千本資俊に誘殺された。

那須資胤
(不明-1583)

那須氏20代当主。兄と対立し勝利し家督を継ぐ、後に家臣の大関氏に攻撃されて隠居を条件に降伏する。

那須資晴
(1557-1610)

那須氏21代当主。天下の形成を読めず小田原征伐に遅参し所領を没収される。

那須資郡
(不明-1566)

那須政資の三男。森田氏の養子になり資胤を補佐し小田倉の戦いで活躍する。

大関宗増
(1462-1544)

大田原資清を追放するが後に復職した資清に大関家を乗っ取られる

大関高増
(1527-1598)

大田原資清の子。一時は主家に反抗するが後に和睦、その後は那須七騎の筆頭的人物として家中最大の勢力を築き主家を支える

参考資料(引用元)

大田原資清
(1486-1560)

大俵胤清の子。清那須七党の一党。大関宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け敗死させ、自身の長男・高増を大関氏へ養嗣子として送り込み大関氏を手中に収め大田原家を那須家最有力家臣と成長させる