家康の母を輩出し、知多半島北部を領した

水 野みずの


水野沢瀉

水野沢瀉

年 表

 1493年

水野清忠の次男として忠政が誕生

 1533年

於大の方徳川家康の母)が誕生

 1533年

忠政が刈谷城を築城する

 1541年

於大の方が松平広忠に嫁ぐ
水野忠重が誕生

 1543年

忠政が死没
信元が家督を継ぐ(今川派から織田派に路線変更)
知多郡宮津城主の新海淳尚を攻める
榎本了円(榎本了圓)を滅ぼす
徳川家康が誕生

 1547年

家康が織田家の人質となる
戸田家を一族に組み入れ知多半島の覇者となる

 1549年

今川家の傘下に降る?

 1551年

織田信秀が死去

 1552年

織田家に復帰する

 1554年

今川家に刈谷城を包囲されるが信長と協力しこれを撃退
奥平貞勝を織田家に寝返らせる

 1558年

石ヶ瀬(愛知県大府市)で松平軍と戦う

 1560年

桶狭間の戦い
今川家の攻撃を受けて水野信近が戦死する
徳川家康が重原城を攻める

 1561年

徳川家康が今川家から独立する

 1562年

信元が仲裁し清州同盟が成立

 1563年

松平家の三河一向一揆に鎮圧の援軍を送る

 1567年

信元が家督を信政に譲る

 1568年

信長の上洛に従軍する

 1570年

浅井家の佐和山城を攻略

 1572年

三方ヶ原の戦いに援軍として参陣

 1575年

長篠の戦いに参陣

 1576年

武田家への内通を疑われ、信長の命を受けた家康により信元、信政親子が殺害され水野家が滅亡

 1580年

忠政の四男・水野忠重により水野家が再興する

 1582年

甲州征伐に従軍
本能寺の変
織田信雄の家臣となる

 1582年

信雄の家臣として小牧・長久手の戦いに参陣

 1585年

秀吉の家臣となる

 1587年

九州の役に参陣

 1590年

伊勢神戸城4万石に移封された

 1595年

刈谷に復帰する

 1598年

秀吉が死没
徳川家康に仕える

 1600年

関ケ原の戦いで忠重が戦死
家督を水野忠胤が継ぐ

 1615年

大阪夏の陣で活躍し備後福山藩10万石を有する大名となる

 1558年

義元が隠居し家督を氏真が継ぐ

 1560年

2万余の軍を率いて尾張国へ侵攻を開始
桶狭間の戦いで織田に敗れる(義元戦死)

 1562年

松平元康が織田家と結び今川家から離反する
三河から今川家が撤退する

 1568年

甲駿同盟が切れる
武田家が駿河へ侵攻し駿府城を占拠
氏真は掛川城へ逃亡する。

 1569年

徳川軍が掛川城を攻め落とす
今川家の滅亡

家 紋

水野沢瀉

赤鳥紋 
家紋の由来についてはここ

出 自(ルーツ)

★ 春日井郡水野郷(愛知県瀬戸市)とする説

水野氏のルーツには2説ある。
まずひとつが、春日井郡水野郷(愛知県瀬戸市)とする説である。これは『寛政重脩諸家家譜』(寛政年間に江戸幕府が編修した家譜集である。)では記されており、そこには、水野家は清和源氏八島氏流と称している。
鎮守府将軍・源満政を祖として、満政の7世孫の浦野重房の代に尾張知多郡阿久比郷小河に住して小河氏(小川氏)と称して、その子・重清が春日井郡水野郷に一時期住して、「水野」と名乗った。
また、春日井郡水野郷には古代から続く桓武平氏良兼流長田氏流水野氏があり、源姓小河氏流水野氏と婚姻関係が生じていた可能性がある。

★ 山城国西嵯峨野水野邑(葛野郡、現・上京区)とする説

水野氏のルーツには2説ある。
もうひとつの由来が『寛政譜』(江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集)に記されている。
その中には水野氏は、右大臣近衛道経の子・経村を祖としており、その経村が山城国西嵯峨野の水野邑に住み「水野」と称したとある。また、これが同族の水野清房(勧修寺清房?)の養子となったことに由来するとある。
この伝承は後世に水野氏が藤原北家近衛家と称する根拠の一つなったと考えられる。その後、経村の子・雅経は阿久比郷小河(愛知県)の地頭職に任じられ主として小河姓を称するようになった。
以後は知多郡小河にて御家人・地頭職を務めたという。

今川氏発祥地碑(愛知県西尾市)

室町時代

★ 足利尊氏に属し、各地で戦功を挙げ駿河・遠江の守護にのしあがる

南北朝時代には尾張の土岐氏と争っていた記録が残っている。また、この頃は姓が「小河」になっていたが、信安の時代に再び「水野」に戻している。
その後、水野忠義は知多郡小河に戻り潜在し勢力を蓄え土岐氏に備えていた。

戦国期

★ 水野貞守が勢力を拡大

15世紀中頃には水野貞守が尾張国知多郡小河(現在の知多郡東浦町緒川)に緒川城を築城し本拠地とする。
その後、水野氏は知多郡大野の佐治氏、渥美郡の戸田氏と争いながら勢力を広げ、大高城、常滑城、亀崎城、宮津城、鷲塚城などを有し勢力を拡大していった。

★ 水野忠政が刈谷城を築城

1530年ごろには水野家の当主であった水野忠政がの時には尾張国と狭い入り江(現在の境川及び逢妻川)を挟んで隣接する三河国碧海郡に刈谷城を築きここを本拠地とした。
また、忠政は知多半島を南下し、佐治氏、戸田氏を圧迫し、三河においては西尾城の吉良氏を圧迫した。

★ 水野忠政が刈谷城を築城

水野氏は当初、今川氏やその傘下にあり近郷に割拠する松平氏との関係が深く、特に松平氏とは頻繁に通婚していた。忠政の時には水野氏は松平氏と同等の勢力であり、 水野忠政の娘である於大の方松平広忠に嫁ぎ、二人の間には竹千代(後の徳川家康)が誕生している。

★ 織田家との同盟

忠政の跡目についだ水野信元(忠政次男)は、それまでの親今川路線を変更し、織田信秀と同盟(織水同盟)を結んだ。
松平広忠と於大の方は離縁となった。

桶狭間の戦いの後、松平家が今川家から独立すると、信元は徳川家康を支援し信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介し、その後も水野惣領家として三方ヶ原の戦いや、長島一向一揆との戦いに参陣した。

水野家滅亡

★ 武田勝頼への内通を疑われ水野家が滅亡

1575年、信元は突然、信長に武田勝頼への内通を疑われ(佐久間信盛の策略によるとされる)、 徳川氏を頼り逃亡をはかるが、織田信長の命を受けた徳川家康により殺害された(これには織田・徳川両氏の陰謀による水野氏排斥であったとする見方もある)。この時、跡継ぎであった水野信政(信近の子)も殺害され、ここに水野氏は断絶となる。

水野氏の再興

★ 一族の水野忠重が水野家を再興

1580年、難を逃れた一族は信長に再興を許され、水野忠政・九男・水野忠重が水野家の宗家として刈谷の旧領に復帰した。また、水野忠政・四男・水野忠守も 尾張国小河(緒川)に所領を得た。
ちなみに、この忠守の子孫に享保の改革を補佐した水野忠之や天保の改革を主導した水野忠邦などがいる。

★ 戦国末期の活躍

水野家宗家となった忠重は信元存命の頃から徳川家康に仕えていたが、水野家再興後は織田信雄に仕え、信雄が羽柴秀吉と講和してからは秀吉の家臣となった。
秀吉の命令で一時伊勢国神戸に転封されるも、ほどなく刈谷に復し、秀吉の死後は徳川家康に従うが、関ヶ原の戦い直前に石田三成方の加賀井重望に殺害された。

★ 徳川家康の家臣として

忠重の跡を継いだ長男・水野勝成は、若い頃は乱暴者であったが知勇に秀で、特に大坂夏の陣では抜群の軍功をあげ備後福山藩10万石を有する大名となった。
忠重の次男・水野忠胤と四男・水野忠清も共に家康に仕え、忠胤は三河国内1万石を有する大名に、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となった。

主な本拠地

武 将 (名前クリックで詳細)

 水野忠政
(1493-1543)

水野清忠の次男。徳川家康の祖父。刈谷城を築いたり、娘を松平家に嫁がせて、領土の保全を図った。

 水野信元
(?-1556)

水野忠政の長男とされているが、その生涯については詳しい事は分かっていない。

 水野信元
(?-1576)

忠政の次男。織田家と同盟を結び、今までの今川派路線から織田派路線へと変更する。その後は信長に従い活躍するが、武田家への謀反を疑われ殺害される。

 於大の方
(1528-1602)

忠政の娘。徳川家康の母。松平広忠に嫁ぎ、竹千代(後の徳川家康)を産む。しかし、実家が松平家と対立すると広忠と離縁し久松家に嫁ぐ。晩年は伝通院と称する