越中国の大名として上杉、織田に属し乱世を生き抜いた

神 保じんぼう・じんぼ

堅二引両(たてふたつひきりょう)

堅二引両

家系図

年 表

 1467年

応仁の乱が勃発
長誠が畠山政長に挙兵を進言(御霊合戦(畠山義就VS畠山政長))

 1493年

長誠が明応の政変により幽閉された足利義材(義植)を救出

 1501年

神保長誠が死去
神保家で家督争いが勃発
神保慶宗が神保家当主となる

 1506年

加賀一向一揆に敗退し長尾家に頼る
慶宗の裏切りにより長尾家が一揆勢に敗北(長尾家との絶縁)

 1519年

畠山・長尾連合軍が神保家を攻める

 1521年

新庄の戦い(畠山・長尾連合VS神保)の戦いで敗れ慶宗が自害
神保慶明が家督を継ぐ

 1531年

加賀国で享禄の乱が勃発し守護側の一員として出兵するが敗れる

 1543年

長職が富山城を築城
越中大乱が勃発

 1559年

椎名家を攻める

 1560年

上杉家が越中に出兵(敗北)

 1562年

上杉家が越中に出兵(敗北)

 1566年

上杉家と和解
上杉謙信と共同して義綱の能登復帰作戦を支援する

 1568年

椎名家が上杉家から離反
親上杉派と反上杉派とで家中が分れる(親上杉派の勝利)となり長住が出奔し織田信長に仕える

 1576年

信長包囲網

 1578年

上杉謙信が死去
織田信長が長住に兵を与えて越中に侵攻させる

 1582年

神保家家臣・小島職鎮らが一揆を誘発し富山城を奪う。(長住が幽閉)これに怒った信長により長住が越中から追放され守護代としての神保氏が滅びた

家 紋

堅二引両

堅二引両

出 自

神保氏の出自に関しては「惟宗氏」、「平氏」、「橘氏」の説があり、その中でも惟宗性がもっとも有力である。
名字の由来は上野国多胡郡辛科郷神保邑が発祥とされている。
元々は室町幕府管領畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣で、畠山基国が越中を領すと、神保氏もこれにしたがって入国し、射水・婦負の二郡の守護代となり越中に神保氏が発展する基礎が築かれた。

越中の執務をとる

射水郡放生津(現・富山県新湊市)などを本拠地とし畠山家中の執事となった神保氏だが、応仁の乱が始まると、東軍畠山政長の腹心として神保長誠が国人・士豪層の掌握に成功し、畠山氏に変わって越中の執務を取った。
また、明応の政変で細川政元に追われた将軍・足利義稙を救出し、放生津に迎え入れた。

戦国時代初期

長誠の死後、神保氏の家督は子の神保慶宗が継いだ。慶宗は主君・畠山家からの独立を目指し、端泉寺および勝興寺を中心とする一向一揆と結び長尾能景 を討つなどの行動をとった。
しかし、これに怒った主君畠山尚順(尚長)は、長尾家と共に神保家に連合軍を派遣し、1520年「新庄の戦い」で能景の子・長尾為景の軍に敗れて敗走中に慶宗が自刃し、壊滅状態となった。

神保氏再興

天文期になると慶宗の遺児・神保長職(※長職が慶宗の子という確証はない)が新川郡に富山城を築いて神保氏を再興し、椎名長常と越中を二分させる越中大乱を巻き起こした。
その結果、神保氏は越中最大の勢力になった。

上杉家との関係

上杉家との戦い

1560年頃になると椎名家の援軍のため上杉謙信が越中へ侵攻するようになる。神保家はこれに何度も敗れることになり降伏を余儀なくされた。

上杉家と和睦

1566年、能登畠山氏で内乱が起こると神保家は上杉家と共同して畠山義綱の能登復帰作戦を支援することになる。 また、1568年に椎名家が上杉家から離反し武田・一向一揆方になると、神保家中は嫡子・神保長住を筆頭に家老・寺島職定の反上杉派と、家老・小島職鎮を中心とした親上杉派が対立し、家中は分裂し内戦状態となった。
上杉氏の介入によって反上杉派は壊滅、神保長住は神保家を出奔し織田信長に仕えた。その結果、神保家は親上杉派が実権を握り上杉氏への従属を深めた。

信長の臣下として

富山城奪還

織田信長に仕えた神保長住は1578年、謙信の死を契機として信長より兵を与えられ越中に進軍、上杉・椎名勢に勝利し富山城を奪還し以後は佐々成政の指揮下に入った。  

守護代としての神保家滅亡

1582年、長住は、旧臣の小島職鎮、唐人親広らに富山城を急襲され、幽閉された。間もなく織田軍の反攻で助けられたが、この事件で長住は失脚し、追放され守護代としての神保家は滅亡した。  

神保家の庶流

神保氏張

佐々成政、徳川家康に仕えて旗本となった。  

紀伊神保家

長誠から別れた庶流。豊臣氏、徳川氏に仕えて旗本として生き残った。  

主な本拠地

  • 放生津城【富山】
  • 富山城【富山】

武 将 (名前クリックで詳細)

神保長誠
(???-1501年)

神保家の当主として初めて表舞台に登場する武将。応仁の乱や明応の政変で活躍し神保家の礎を築いた。

神保慶宗
(?-1521)

長誠の嫡男。父の死後、内紛を収め神保家の当主となった。主君・畠山家からの独立を目指し畠山・長尾と戦う。

神保長職
(???-1572)

慶宗の嫡男。富山城を築き神保家を越中最大の勢力に築き上げるが、上杉謙信に敗れ、降伏した。のちに意見の対立により家中が分裂し、再び神保家は衰退した。

神保長住
(???-???)

長職の嫡男。反上杉派として父・長職と対立し追放される。その後信長に仕え越中を奪還に成功するが家臣の小島職鎮らに襲われて富山城に幽閉され、信長により失脚した。

神保長城
(???-???)

長職の次男。親上杉派の父・長職と共に反上杉派の兄・長住を追放。その後神保家の家督を継ぐ。その後、上杉謙信に敗れ戦死する。

神保慶明
(???-???)

慶宗の弟。兄・慶宗が畠山家に対して反乱を起こすと畠山家に従い慶宗討伐に奔走する。