佐竹や伊達家と状況に応じ外交相手を代え戦国時代を生き抜いた大名

岩 城いわき


家紋連子に月

連子に月

家系図

年 表

家 紋

連子に月

連子に月

出 自

岩城氏の先祖は、常陸平氏(海道平氏)の一族と称した「岩城則道」とされている。則道の正室は奥州藤原氏初代当主・藤原清衡の養娘とされている。つまり岩城氏は奥州藤原氏とも関係が深かったとされている。

概 要

戦国時代初期の岩城家は関東地方や南奥の佐竹家や白河結城氏、古河公方家の内紛(永正の乱)に介入し、勢力拡大目論むが今ひとつの結果に終わる
天分の乱では、親隆の娘が伊達晴宗の正室となっていたため、晴宗側に付くと相馬・田村攻めや二本松氏の内部抗争を誘発するなど活躍した。
「天分の乱」終焉後は伊達氏、蘆名氏、佐竹氏との間で外交戦略を駆使し生き残りを図った。やがて佐竹氏が陸奥に進出するようになり、岩城家とたびたび軍事衝突するようになる、岩城親隆は関係改善のため、佐竹義昭の娘を妻に迎えるが関係は改善されず、やがて親隆が死去し、佐竹氏出身の親隆夫人が当主代行として振舞うようになり岩城氏の実権は佐竹家に握られるようになった。
常隆の時代になると、縁戚関係である伊達家に対して友好的な関係を築こうとするが、対立関係である田村氏と伊達家が縁戚関係を結ぶと再び佐竹家寄りになり、伊達家とたびたび衝突する。
1590年豊臣秀吉の小田原征伐に参陣することで所領を安堵されたが、常隆が24歳の若さで死去すると、佐竹義重の三男・貞隆が養嗣子として岩城氏を継承する事になる。
関ヶ原の戦いで当初は東軍方になったが、当時の当主であった「貞隆」の実兄・佐竹義宣の命に従って、徳川家康の上杉景勝征伐に参加しなかったため、所領(現在の浜通り夜ノ森以南)12万石を没収される。



~関東地方への侵攻~
戦国時代初期の岩城氏は佐竹氏の内紛に介入し1485年に親隆・常隆によって佐竹領の車城を攻略している。1489年には伊達・蘆名・結城氏と共に佐竹領に侵攻するがこれは、佐竹義治に敗れている。その後、佐竹家の内紛を調停し和議を成立させるが、この内紛により岩城氏は常陸から南奥にかけて勢力を伸ばした。
1500年代にはいると「由隆」が当主となり、北関東の宇都宮氏や白河結城氏などの北関東を中心に戦を繰り広げて勢力を拡大していった。
1504年の「永正の乱」では2代古河公方・足利政氏に属し、宇都宮氏や結城氏と戦った。1514年の那須口の戦いでは、常陸国の佐竹義舜や下野国の那須資房と共に宇都宮忠綱を打ち破る活躍をしている。しかし、竹林の戦いでは、忠綱や結城政朝連合軍に大敗を喫している。その後も足利政氏派として各地で戦うが、「永正の乱」が高基派の勝利に終わり。南奥勢力拡大のため介入した那須家の内紛にも敗北し、岩城家は衰退の1歩を辿っていく。



~天分の乱とその後~
周辺諸国である相馬家、田村家が伊達家の縁戚となって勢力を拡大しているなか、岩城氏は白河結城氏と同盟関係を固めることによりこれらの勢力に対抗しようとしたが、長女・久保姫の嫁ぎ先をめぐって伊達氏や相馬氏と対立し軍事的な争いにまで発展した結果、敗れ、久保姫を伊達晴宗(稙宗の長男)に輿入れせざるをえなくなった。その際にその際に晴宗と久保姫の子を岩城氏の養子に迎えることを約束させたという。
「天分の乱」が勃発すると、縁戚関係である晴宗側につき、翌天文12年(1543年)に稙宗方の伊達郡懸田城主・懸田俊宗を攻めている。天文15年(1546年)、稙宗方の二本松義氏が二本松氏庶流で晴宗方・本宮宗頼の拠る本宮城を攻め落とすと、重隆は逃亡した宗頼を保護している。また1548年には相馬顕胤を、翌天文17年(1548年)3月には田村隆顕を攻めている。晴宗から蘆名盛氏と共にその勇戦ぶりを賞賛された。また、晴宗と連絡をとりつつ田村氏や二本松氏の内部抗争を誘発させ、弱体化を図るなど調略も駆使した。
「天分の乱」後は、田村氏や相馬氏との抗争を継続する一方で、伊達氏、蘆名氏、佐竹氏との間で外交戦略を駆使し生き残りを図った。伊達氏より鶴千代丸(後の親隆)を迎えた。

主な本拠地

武 将 (名前クリックで詳細)

岩城常隆
( ? -1510)

岩城氏11代当主。佐竹領に侵攻し勢力を拡大、また、白河結城氏の内訌や古河公方家の内紛(永正の乱)に乗じ、これに介入し勢力を広げ、岩城氏の全盛期を築き上げた。

岩城由隆
( ? -1542)

常隆氏岩城氏13代当主。古河公方の家督争い(永正の乱)では、佐竹家とともに政氏方に属し、高基方に属した宇都宮家や下総結城家と戦いを繰り広げた。

岩城重隆
( ? -1569)

由隆の嫡男。天文の大乱の際は、娘・久保が晴宗の妻であった関係から、晴宗方に属した。佐竹義篤ともたびたび争った。和歌をよくしたといわれている。

岩城親隆
( ? -1594)

伊達晴宗の長男。岩城重隆の養子となって岩城家の家督を継ぐ。養父が築いた領国を継承する。しかし、佐竹家の侵攻を受け、従属を余儀なくされた。晩年は病に倒れ家督を常隆に譲った。

岩城常隆
( 1567-1590)

岩城親隆の子。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して戦功を立て、秀吉から所領を安堵されたが、北条家の降伏後間もなく、鎌倉で病没した。

岩城貞隆
( 1583-1598)

佐竹義重の三男。岩城常隆の養子となり岩城家の家督を継ぐ。関ヶ原合戦に出陣せず改易された。のちに大坂の陣に参加し、信濃川中島1万石の大名へ復帰する。