北関東の覇権争い

ー上那須家の乗っ取りー
成綱の正室の実家で婚姻同盟関係だった上那須氏の那須資親が没し、同年那須資永と山田資久の後継者争いが勃発し上那須氏が滅亡すると成綱は血縁関係を理由に宇都宮一族の者(宇都宮興綱)を上那須氏へ継がせ再興し、那須氏を内部から完全掌握しようと目論んでいたが、その脅威を察知した下那須氏の那須資房によって先手を打たれ那須氏は統一を果たしたためその野望は実現しなかった。
その後、上那須氏当主の那須資親は永正の乱では成綱に従い足利高基を支持していたが、統一那須氏当主となった那須資房は佐竹義舜や小山成長らとともに足利政氏に与して成綱と対立関係になった。

ー佐竹家との争い(竹林の戦い)ー
古河公方家の内紛で足利政氏を支持していた芳賀氏が成綱に平伏すと、政氏は佐竹氏・岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜・岩城由隆・佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は2万の連合軍で下野に出陣した。
この戦いは足利家の内紛でもあるが、宇都宮氏と佐竹氏による北関東の覇権を巡っての争いの1つでもあった。
成綱は嫡男の忠綱が成綱の名代として出陣した、17歳という若さで総大将を任された。忠綱は、佐竹・岩城勢と那須口で対峙し、佐竹氏の連合軍だったため兵数的にもこの合戦は宇都宮勢にとって不利だった。ここで忠綱は敗れ、宇都宮に撤退した。常陸国の佐竹義舜・岩城由隆は撤退する忠綱に追撃をかけた。
下野国宇都宮竹林で両氏は再び対峙したが。成綱も援軍として駆けつけており、同盟関係の結城氏の結城政朝・山川朝貞・水谷勝之などの援軍によってくしくも撃退に成功している。これが俗に言う「竹林の戦い」である。


ー佐竹家との争い(縄釣の戦い)ー
「竹林の戦い」の2年後再び、佐竹氏と岩城氏が下野に大軍を引き連れ侵攻する。成綱は体調が悪かったため、ここでも嫡男・忠綱が総大将として出陣する。
両者は下野国上那須庄浄法寺縄釣で対峙し、一戦した。結果は大勝で佐竹義舜・岩城由隆勢は撤退。宇都宮勢はそのまま追撃し、下野国武茂庄で一戦し勝利、さらには常陸国の月居まで侵攻して佐竹義舜・岩城由隆勢に壊滅的な被害を与えた。
宇都宮忠綱の近臣である永山忠好の文書から、この合戦で佐竹方の城や砦を多数落としたことが判明している。

ー足利公方の内紛の終結ー
「縄釣の戦い」合戦で足利政氏の敗北は決定的になり、足利高基は名実ともに古河公方となった。これによって高基の義父である成綱や、義兄弟である忠綱の権威も相対的に強化され、北関東一の確固たる地位を獲得した。また、佐竹氏との覇権争いに勝利し、宇都宮氏は当時の関東の中で強い影響力を持つようになり、この頃の宇都宮氏は北関東随一の勢力となった。
実質的に成綱は北関東の覇者たる存在となった。

晩 年

成綱はさらなる躍進を狙うが、永正13年11月8日(1516年12月1日)宇都宮城内で没した。享年49だった。