武茂氏と芳賀氏

宇都宮氏の重臣には、武茂氏と芳賀氏が居た。両家とも宇都宮氏の一族だった。
成綱の父・正綱は武茂家の当主も兼任していたので、成綱が就任した時の側近の多くは武茂氏の重臣達だった。側近達はまだ若い成綱を軽視し政治を専横した。さらに成綱の宇都宮氏家督相続に不満を抱いていたために成綱の弟である武茂兼綱を擁立して叛乱を起こす。成綱はこの状況を打破し、支配権を確立するために、成綱を支持する芳賀高益・芳賀景高とともに、武茂氏の重臣達を武力で一掃し実権を手にした。さらには古河公方足利成氏からの公認も得て、圧伏させた。 この一連の騒動は当時勢いのあった家臣である芳賀氏と武茂氏の権力争いであり、この政争で敗北した武茂氏は権力中枢から脱落し、芳賀氏の台頭を招いた。
また、この間に芳賀氏内でも権力争いがあったといわれており、その闘争に勝利したのが芳賀景高である。 芳賀氏は芳賀高久以降、宇都宮一門化しており、絶頂期を築いた宇都宮氏綱の代には芳賀禅可が活躍している。

さらなる勢力拡大

成綱は室町時代の度重なる内乱で没落した下野宇都宮氏を立て直すために尽力し積極的に勢力拡大していた。 延徳3年(1491年)に成綱は鹿沼に侵攻して、鹿沼氏と上野台で対陣し、勝利する。この合戦で鹿沼城主の鹿沼教清は討死し、鹿沼氏は断絶。鹿沼城は宇都宮勢によって落ち、加園城の渡辺氏、南摩城の南摩氏も成綱に従うようになる。こうして鹿沼地方は宇都宮領になった。
さらに、積極的に勢力を拡大する成綱は下野国塩原の地を巡って会津の長沼氏との争いが頻繁に起こるようになる。また、同時期に蘆名氏の蘆名盛高も宇都宮領である下野国箒根を狙い北関東に侵攻しようとする動きを見せていた。
蘆名盛高が長沼政義を先頭に関谷片角原に出陣してくる。それに対して成綱は紀清両党、一門である塩谷氏やその家臣である大館氏、山本氏、塩原綱宗などを率いて、和田山片足坂の三郎淵で対陣した。平貞能の末裔である田野城主の関谷氏が突然宇都宮勢から蘆名勢に寝返り、宇都宮勢の動きを蘆名勢に密告しようとしたが、成綱はこれに気づき、攻撃する。その結果、蘆名勢は総崩れとなり、成綱ら宇都宮勢の大勝となる(片角原の戦い)。これによって、塩原領は永正7年(1510年)、宇都宮成綱の物となり、弟の塩谷孝綱に与えた。 成綱はこの合戦で奮戦した塩原綱宗に恩賞として塩原城城主へと任命した

永世の内訌

ー発 端ー
古河公方足利政氏と息子の足利高基が対立して永正の乱が勃発すると、成綱は宇都宮へ逃れてきた娘婿の高基を庇護し、古河公方家の争いに介入。この争いに乗じて勢力の拡大を図った。ところが、家中の実権を握る芳賀高勝は足利政氏を支持したためにこれに同意せず、宇都宮氏の家中は分裂状態になった。実はこの頃の宇都宮家の実際の権力は芳賀家が握っていたという見方もある。

ー経 過ー
成綱と芳賀高勝の争いが激化し、武力衝突にまで発展するが、高勝の謀略によって成綱は強引に隠居させられた。同時に、芳賀高勝によって嫡子の宇都宮忠綱が擁立され、宇都宮氏第18代当主となった。しかし、隠居後も成綱が実質的な当主であり、実権を握っていた。また、成綱はこの間に弟 (忠綱にとっては叔父)の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせており、また、同じく成綱の弟の兼綱も武茂氏の家督を継承している。さらに下総結城氏の結城政朝に姉の玉隣慶珎大姉を嫁がせており、同盟関係を築いていた。
この成綱の隠居と芳賀高勝による忠綱擁立の真相は、実は成綱による家中の完全掌握を狙った計略の1つであった。


ー「宇都宮錯乱」への発展と収束ー
1512年になると、遂に成綱が芳賀高勝を殺害していまう、これをきっかけに芳賀氏派が大反乱を起こした。これが俗にいう「宇都宮錯乱」である、 高勝の殺害によって家中の実権を取り戻した宇都宮成綱は若い忠綱を後見する形で芳賀氏の鎮圧に乗り出すことになる。だが、家中の実権を握ってきた芳賀氏の勢力は宇都宮氏に匹敵するものになっており、成綱は足利高基や高基派の小田氏の支援や、重臣である壬生綱重らの活躍により、約2年かけてこの乱を鎮圧。芳賀氏は宇都宮成綱・忠綱を頂点とする新しい支配体制に取り込まれる形で宇都宮錯乱及び、永正の内訌は収束した。