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分倍河原の戦で敗北し自害した扇谷上杉家当主
上杉 顕房
ポイント
- 扇谷上杉家当主
- 鎌倉公方の復興を期に父から家督を譲りうける
- 享徳の乱が勃発すると、関東管領・上杉憲顕と共に足利成氏と戦う
- 武蔵国分倍河原の戦いで敗北し自害する
誕生・死没
- 誕生:1435年
- 死没:1455年
- 享年:20歳
名 前
- 三郎(通称)
- 長源院(戒名)
官位・幕職
- 修理大夫
- 弾正少弼
- 相模守護
所 属
略 歴
1435年 | 0歳 | 上杉持朝の長男として誕生 |
1447年 | 12歳 | 鎌倉府が再興される 父・持朝が隠居し家督を継承する |
1450年 | 15歳 | 江ノ島合戦に参陣 |
1455年 | 20歳 | 享徳の乱が勃発 分倍河原の戦いに破れ自害する |
概 要
扇谷上杉家当主。足利成氏が鎌倉公方に復帰した際に、父・持朝が隠居したため扇谷家の家督を継承する。その後、享徳の乱が勃発すると武蔵国分倍河原の戦いにおいて敗北し自害した。
扇谷上杉家の家督相続
上杉持朝の嫡男として誕生。
1449年、関東管領山内上杉により滅ぼされた鎌倉公方・足利持氏の遺児の永寿王(足利成氏)が鎌倉公方に復帰した。
父・持朝はかつて持氏を滅ぼしたことに気を使い、家督を顕房に譲り自らは隠居した。しかし、実権は持朝が握ったままだったとされる。
享徳の乱と最後
鎌倉公方を再興した足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害し享徳の乱が勃発した。
顕房は上杉氏の一門として上杉憲顕や長尾景仲らと共に軍勢を率いて足利成氏と戦うが、武蔵国分倍河原の戦いにおいて敗北、武蔵夜瀬(同三鷹市)で成氏軍に包囲され自害した。